出エジプト記2章11~25節「寄留者モーセ」
黙想のポイント 神は何のためにモーセを「寄留者」にされたのでしょうか。
◆6月から、出エジプト記に入りました。今日はその3回目になりますが、モーセの生い立ちを改めてみ言葉からいただく時、神様の大いなるご計画に驚かされます。
モーセはヘブライ人レビ族に生まれましたが、生後3ヶ月でナイル川に流され、エジプトの王女に引き上げられ、ヘブライ人でありながらエジプトの王女の子として育てられます。今日の箇所は、「モーセが成人したころのこと」からはじまる、青年モーセが体験する挫折と苦悩を見ることができます。
2:11 モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。
2:12 モーセは当たりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。
モーセは実の母親を乳母として育ちましたので、自分がヘブライ人であることは自覚していたと思われます。彼はエジプトの王宮に住んでいました。「同胞のところへ出て行き」とあります。エジプトの王宮から、ヘブライ人のいるところへ足を運んでいたことがわかります。
そこで、仲間が重労働に苦しむ様を見、またそれをエジプト人がさらに鞭打っていたその様を、見るに堪えなかったのでしょう。モーセは誰もいないのを確かめて、そのエジプト人を打ち殺して砂に埋めてしまいました。モーセは殺人を犯してしまうのです。同胞を苦しめ、傷つけるエジプト人をモーセはきっと許せなかったのでしょう。
2:13 翌日、また出ていくと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、
2:14 「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、この私を殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあのことが知れたのかと思った。
翌日はヘブライ人同士が傷つけあっていた様子を見、「仲間ではないか」と仲裁しようとしますが、ここでヘブライ人の一人が「お前はいったい何様だ?」と鋭く言い返してきます。
モーセにとって、それは思いもかけない言葉であったでしょう。エジプト人に虐待され、虐げられているヘブライ人を「同胞」「なかま」と思ってきたのに、そのヘブライ人に拒絶され、愕然とします。ヘブライ人に受け入れてもらえていない現実を突きつけられるのです。そればかりか、殺人を犯したために、祖国エジプトを追われることになってしまいます。
2:15 ファラオはこのことを聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。
モーセはミディアン地方へ逃げます。もはやかくまってくれる王女もいません。エジプトの宮殿もありません。命の危険と恐怖から、居場所をなくしたモーセ。異国の地で、モーセはひとりのエジプト風の格好をしたヘブライ人になりました。町に入り、井戸の傍らに座り休息します。そこへ・・
2:16 さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちがそこへ来て水をくみ、水ぶねを満たし、父の羊の群れに飲ませようとしたところへ
2:17 羊飼いの男たちが来て、娘たちを追い払った。モーセは立ち上がって娘たちを救い、羊の群れに水を飲ませてやった。
ミディアンの祭司の羊を七人の娘たちが水を汲んでいることから、男手がないことが分かります。さらに、羊飼いの男たちに追い払われてしまう娘たちを助けずにおられないモーセは、弱者を助け、正義感に溢れる若者であったことがうかがわれます。娘たちは父親であるレウエルに報告します。「一人のエジプト人が羊飼いの男たちから私たちを助け出し、私たちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました」彼女たちにはモーセは「エジプト人」に映っていました。着ているものがエジプト風だったからでしょう。なにしろエジプトの王女の養子として育てられていますから、立ち居振る舞いがエジプトの王族のような態度だったのかもしれません。
2:21 モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。
2:22 彼女は男の子を生み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである。
モーセにとって、この地での生活はのちにとても重要な意味をもつものとなったでしょう。何の不自由もなく育ったエジプト時代は完全に過去のものとなり、「おたずね者」としてひっそりと暮らさねばなりませんでした。祖国エジプトでのびのびと暮らしていた青年モーセの価値観、アイデンティティ(自己認識)、生き方が打ち砕かれ、ただ一人の羊飼いとして過酷な労働に黙々と耐える者となりました。それはまさに、この時、イスラエルの人々がエジプトの地にて虐げられたことによって経験したことでした。出エジプト記の23:9に、「あなたがたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。あなたたちはエジプトの地で寄留者であったからである。」とあります。モーセもまた、ミディアンの地で、彼らと同じ思いを経験したのです。
「寄留者」とは一時滞在者であり、「本当の祖国はどこか?」探し求めるモーセの姿があります。神はカナンの地であることに導いてくださっているとも考えられます。私たちにもこの世にあって、「私たちの本国は天にあり」(フィリピ3:20)と聖書は語ります。その意味で私たちも神の御国を求める寄留者であるともいうことができるでしょう。
2:23 それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。
2:24 神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。
長い年月を経て、主なる神はイスラエルの人々の叫びをお聞きになり、先祖に与えられた地に、再び導き戻すご計画をお始めになります。(アブラハム、イサク、ヤコブとの契約については創世記15:13~16を参照)モーセは、苦悩と挫折を味わい、そしてエジプトでもヘブライでもない、偏った価値観から解き放たれ、この壮大な計画に召される重要な人物へと変えられていきます。
後に神に召されたモーセが兄アロンと共に、神のことばをエジプトの王ファラオとイスラエルの民に伝えますが、両者とも聞く耳をもちません。ファラオは頑なにイスラエルの民を苦しめ続け、イスラエルの民は、神はどうしてこのような仕打ちをするのだと不平を二人にぶつけます。その板ばさみにあっているモーセの孤独な戦いを見ることができます。そこで神はモーセを力づけ、励まします。このようなモーセの姿に、神の被造物であるひとりの人間として、神の愛をつたえるために、ひたむきに神に仕える姿を見ることができるのではないでしょうか。また、神はどんな弱さ、過去の罪があっても、聖(きよ)めて用いてくださるお方でもあります。イザヤ書57:15「高く、あがめられて、永遠にいまし/ その名を聖と唱えられる方がこう言われる。/ 私は、高く、聖なる所に住み/ 打ち砕かれて、へりくだる霊の人に命を得させ/ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。」神はすべての人々に祝福と恵みを与えてくださいます。そのことを広くお伝えする僕として、私たちも砕かれて、へりくだって主に仕えていきたいと思います。