出エジプト記1章22節~2章10節「モーセの誕生」
テーマ 約束の成就…どんな時にも約束を忘れず、果たしていかれる神
黙想のポイント
その1 神の壮大な救いのご計画の中にあるモーセとイスラエル民族のことを黙想しましょう。
その2 イエス・キリストとの類似点を黙想してみましょう。
◆前回に引き続き、出エジプト記の出来事と深い関係がある創世記15章の続きを参考にします。
前回、神はアブラハムに彼の子孫が400年間に渡って異国の地で奴隷として苦しまなければならないことを伝えた箇所を確認しました。その続きが15~16節です。
15:15 あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。
15:16 ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」。
>>>ここで語られる四代目とはアブラハムから数える必要はありません。エジプトに下って行った十二部族から数えて、奴隷となったが無事カナンの地に戻ることができた者たちのことであり、モーセとその時代の人々と考えれば、ちょうどモーセはエジプトに寄留した祖父から数えて四代目に当たります。アブラハムはきっとこの四代目以降の者たちにも焦点を当てながら、その活躍と彼らが無事カナンの地に戻ってくることができることを執り成し祈ったことでしょう。
参照…エジプトに寄留したイスラエル(アブラハムの孫ヤコブの子どもたち)の十二部族が出エジプトを実現するまでの(出6章14節~)モーセの系図
一代目レビ(十二人兄弟の5番目)の子孫
▶二代目ケハト(三人兄弟の2番目)
▶三代目アムラム(四人兄弟の1番目)
▶四代目モーセ(二人兄弟の2番目…兄はアロン)
>>>また、神が客観的に見れば、どうしてここまで徹底してイスラエル民族に対峙する民族に災いをもたらすのかという疑問についてですが、そこには神が忍耐の限りを尽くしてそれらの民族の罪を裁かずにおられたという背後の事情が見てとれます。つまり、神はいたずらに民族を容赦なく滅ぼすようなことはなさらないということです。イスラエルがカナンの地の住民を滅ぼすよう神が命じられるのはカナン人の総称である「アモリ人の罪が極みに」神の前で達するからだと神はアブラハムに述べています。神は神に背き続ける民族をいつまでも裁かずにほっとくことはないというのが聖書の一貫した主張です。すべての人類を最終的に裁く日は将来必ず訪れます。しかし、神は特定の民族の悪が極みに達するまでは徹底した忍耐を持ってその民族を憐れまれるのです。
申命記9章4~6節でも神はカナンにいよいよ攻め込もうとするイスラエルの民に対して次のように命じています。
9:4 あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。
9:5 あなたが正しく、心がまっすぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民が神に逆らうから、あなたの神、主が彼らを追い払われる。またこうして、主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである。
9:6 あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。
>>>ここで明確にされているのは、イスラエルの民もまたかろうじて神の憐みと忍耐の中で滅ぼされずにいるということです。神は繰り返し、イスラエルを他の民族から守ったからと言って、また自分たちに味方したからと言って、おごり高ぶってはならず、他の民族を見下してはならないことを命じています。このような理解が背後にあって、イスラエルの民もまた様々な罪を犯すことが原因で一族が滅びる危機を何度も経験することになります。また、今回の箇所のようにエジプトの王と民族の非道な行いが神の怒りを招いていることを理解することができます。ここに語られているように、問答無用に神が授けた命を無理やり奪う権利はどんな国にも人にも与えられていません。命をこのようにないがしろにするものに神はこの世においてでなくても、必ず最終的には裁かれるお方なのです。さらには厳密に言えば、イスラエルの民の命を奪う行為に出ているのはエジプトの王を始め、男性兵士たちが中心です。また、エジプトの王が命を奪うように命じているのはイスラエルの男子の赤ちゃんです。この罪に呼応するように神は最終的に、エジプトにいる男の長子の命を奪い、また兵士たちを紅海において大勢滅ぼしています。しかも、神は無条件に男の長子たちの命を奪ったわけではありません。あらかじめイスラエルの民を通して、神のこの警告の言葉を聞いて家の入口に小羊の血を塗った家の長男の命は奪わないという約束まであったのです。ノアの洪水の時にはノアを通して民は大洪水にみまわれることが予め大きな箱舟の建造によって象徴的に示されていました。今回は度重なる神の手によることが徐々に明確になり、否定しようのない仕方で警告レベルが高められていく中での最終警告でした。エジプト人たちもその警告を聞いてさえいれば、彼らはイスラエルの民同様にだれも命を奪われずには済んだのです。神は常にどのような民にも警告し続けておられます。神に背く罪を悔い改めなければいずれは神の義の裁きを受けて報いを受けることになるということを。
ヘブル 9:27 「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている…」とある通りです。
前回より、エジプト王と民族がどのようにひどい仕打ちをイスラエル民族に対して行い、奴隷として苦しめて来たかを見ましたが、ここへ来て神の目にエジプト人たちの罪が極みに達していると見ることができるのかも知れません。しかし、そのような中にも神の忍耐と憐み、そして救いのご計画は着々と進んでいくのです。次々に生まれてくるイスラエル民族の男子がナイル川に無残に投げ込まれる中で、命拾いをする赤ん坊が登場します。しかも、不思議な導きでエジプトの王女の子として育てられていくのです。そうです。それがやがてイスラエルをエジプトから導き出すモーセその人なのです。
◆モーセの生い立ち
1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」
2:1 レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。
>>>イスラエルをエジプトから、そして奴隷状態の中から救い、導き出す役割を神から与えられるモーセの両親は実は祭司の家系であるレビ族であることがここで語られています。つまりモーセは祭司の家系の出なのです。そしてこのことは祭司の家系の出である母親のマリアから生まれたイエス・キリストを指し示す内容にもなっていると考えられます。しかもイエスとは厳密に言えば血のつながりのない育ての親であるヨセフの家系はダビデ王家の血筋でしたが、モーセもまた血はつながっていないものの文字通りエジプト王の家系で育てられることになるのです。また、主イエスが生まれた時も同じような非情な幼児殺戮がヘロデ大王の手によって実行されました。そして主イエスもその難を逃れることになるのです。しかも、その時に一時エジプトに逃れて寄留したというのは何の因縁なのでしょうか。ここに多くの類似点を見ることができます。今回の箇所はやがて人類を罪の奴隷から救い、導き出すことになる主イエス・キリストを指し示す多くの手がかりがちりばめられているのがお分かりいただけると思います。
2:2 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。
2:3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
2:4 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、
2:5 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。
2:6 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。
2:7 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」
>>>ここで登場するモーセの姉とは後で登場するミリアムのことです。彼女の機転によって、モーセは実の母の乳を飲みながら育つことができたのです。
2:8 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。
2:9 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、
2:10 その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」
>>>「水の中から引き上げ」られた子がモーセでした。そしてそれは死から命に移されたバプテスマを象徴するものでもあり、また主イエス・キリストをも象徴します。出エジプト記はこのように神の罪の裁きと罪からの救いについて、そして死の危機から命へと救い出す神の御業が語られていくのです。そして私たちもこの神のご計画の中にあることを覚えていきたいと思います。