使徒言行録15章1~21 節「恵みに圧倒されて」
テーマ クリスチャンとして生きる信仰
黙想のポイント
1 クリスチャンは旧約聖書の教えを必ずしも守らなくてもいいのでしょうか。
2 クリスチャンはユダヤ人と旧約聖書の教えに従うことにおいてどういう違いがあるのでしょうか。
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◆エルサレムの使徒会議
15:1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
15:2 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
15:3 さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。
>>>エルサレムへの途中でも、各地の教会によって主の恵みを分かち合い、証しつつ戻って行ったことが分かります。そして、特に異邦人伝道が実を結び始めたことが兄弟たちの喜びとなりました。
15:4 エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。
15:5 ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
15:6 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
>>>この議論は今日でも通用する大事な議論かもしれません。また、へたをするとこの箇所を誤って理解すると、異邦人クリスチャンにとって旧約聖書の教えはさほど重要ではないという理解になり兼ねません。しかし主イエスは律法(つまり旧約聖書の教え)を廃棄するためにこられたのではなく、成就するために来られたこと。また、主イエスは律法の一点一画も廃ることはないと言われたことなど、数多くの教えを考慮に入れると、私たちは決して旧約聖書の教えをないがしろにしていいという結論に至るわけではないことを理解して置く必要があります。
もともとユダヤ教徒だった者たちからすれば、異邦人改宗者たちにも割礼を重んじてもらうべきだと考えることは理解できることではないかと思います。彼らは割礼を受けることによって神の教えに従うことを神に約束し、その見返りとして家族と民族の平和と健康と長寿と繁栄を約束されて神と契約を結んだ民です。旧約聖書の教えに従うことを意味する割礼の儀式によって言わばユダヤ教徒になることこそ幸せになるための絶対条件だと彼らは考えていたからです。
また、当時は旧約聖書しか存在しません。異邦人クリスチャンたちも神について学ぶためには旧約聖書を学ぶ必要がありました。ユダヤ教徒だった者がクリスチャンになる場合には異邦人たちと違ってユダヤ教徒をやめる必要はありませんでした。旧約聖書はキリスト教と矛盾しないどころか、旧約聖書が預言していた預言の成就としてイエス・キリストを信じるからです。
その点が異邦人クリスチャンの場合には全く違っていました。自分たちがそれまで関わっていた異教の神を信じる宗教の信者として引き続き留まり続けることは許されません。むしろ、旧約聖書が教える天地創造の神と旧約聖書が指し示す救いの道とその救い主イエス・キリストを信じてその教えに従う必要がありました。しかし、だからと言ってユダヤ教徒に改宗する必要まではないという結論に今回の会議でなって行きます。それでは、異邦人クリスチャンはどのような旧約聖書の教えは継承し、どのような教えは実行しなくても良いと言うようになって行ったのでしょうか。
15:7 議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。
15:8 人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。
15:9 また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。
>>>ここでの強調点は、これまでは神の契約の中に生きていたユダヤ教徒に聖霊が与えられたという解釈でしたが、ユダヤ教徒になる以前にユダヤ人改宗者と同様に聖霊を与えられ、信仰によって清められたという事実。このような祝福は神の民であるユダヤ人に改宗した時にだけ与えられるものと考えられていた従来の考えが覆されたことを意味します。これにより、割礼を受けたりしてユダヤ教徒になることなしに異邦人はクリスチャンとして神に受け入れられることが証明されたのです。
15:10 それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
15:11 わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」
15:12 すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。
15:13 二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。
15:14 神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。
15:15 預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。
15:16 『「その後、わたしは戻って来て、/倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、/元どおりにする。
15:17 -18それは、人々のうちの残った者や、/わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、/こう言われる。』
>>>旧約聖書にはこのように異邦人も聖書の神を礼拝するようになる預言が多数存在します。また、ここで注目したい表現は、「わたしの名でよばれる異邦人」というみことばです。「ユダヤ教徒と呼ばれるようになる異邦人」がではなく、むしろ「クリスチャンと呼ばれるようになる異邦人」が皆、主を求めるようになるためだという文脈で語られているみことばなのではないでしょうか。
15:19 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
15:20 ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。
15:21 モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」
>>>エルサレム会議の話し合いの結果、割礼は異邦人には不必要との結論が出されました。ユダヤ人に課せられた律法の戒めの中で異邦人も遵守するように決議されたのは、①偶像礼拝で用いられた食物を食べることと、②不品行な振る舞いと、③血を抜かないで動物の肉を食べることに留まりました。①と②はモーセの律法の中でも人類にとっても普遍的な神の教えである十戒を指しているような教えではないかと思われます。なぜなら十戒の前半は聖書の神のみを信じ、礼拝し、その他の神をおがむような偶像礼拝をしないという教えだからです。そして、神礼拝を7日毎にすることもそれに加えることができます。そして十戒の後半部分は人としていかに神の御前に正しく生きるかが教えられており、すなわち殺し、姦淫、盗み、偽証、他人のものを横取りすることが含まれると言えないでしょうか。そして③はユダヤ人の食習慣に異邦人に合わせていただくという意味での協力要請だと言えます。今日日本ではユダヤ人が周りに少ないためにユダヤ人の掟に従って食生活をする必要がないのは言うまでもありません。また、様々な安息日規程やユダヤ教徒のしきたりに従う必要がないことも事実です。日本のクリスチャンは主イエス・キリストが教えて下さった神の国と神の義を実現するために最善を尽くしながら、旧約聖書の教えとしては偶像礼拝から遠ざかり、主日礼拝および十戒で示されるクリスチャンとしての正しい生き方を示し、他方ではまわりにいるユダヤ教徒を始め、他宗教の人にも配慮と理解を示す生き方を心がけるように求められていると言えるのではないでしょうか。