使徒言行録1章3~11節
今回から、使徒言行録を5月末まで読んでいきますが、使徒言行録はルカによる福音書とセットになっており、第一巻が福音書、第二巻として使徒言行録が書かれました。
この使徒言行録は聖霊言行録ともいうほどに、聖霊の働きが随所に表れています。
学びの視点 イエス様はなにをお命じになられたのでしょうか。
黙想のポイント 私たちはどのように聖霊を待ち望むのでしょうか。
◆復活のイエス
1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
>>>イエス様は、復活ののちも弟子たちの前に度々現れ、神の国について語られました。数多くの証拠をもって示さねばならないほどに、弟子たちの中にはいまだにイエス様の復活を信じきれていない者もいました。イエス様が十字架にかかられた時、「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従ってきた婦人たちは遠くに立って、これらのことを見ていた。」(ルカ23:49)とあります。彼らはイエス様の死を遠くから、しかし確実に見届けたのです。イエス様が復活されて現れたとき、すぐに信じられないのも無理はなかったろうと思います。そのような弟子たちにイエス様はどうやってご自身の復活を示されたでしょうか。ルカによる福音書24:37~43に、イエス様が「食べる」という行為によって、復活を示されたことが分かります。また、イエス様自らが実に40日にわたって弟子たちの前に現れ、神の国について語られました。その40日は弟子たちにとって喜びの日々であったことでしょう。
1:4そして、彼らと共に食事をしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
>>>エルサレムを離れないように・・。弟子たちとイエス様は食事を共にし、イエス様はエルサレムを離れないことを弟子たちにお命じになりました。聖書教育にありますが、「エルサレムは、ダビデ王による統一国建設以来、神殿を構えて首都とされ、ユダヤ人にとっての中心地としてイスラエル国の象徴的な場所でした。」イエス様はエルサレムの神殿を「わたしの父の家」と呼んでいます。(ルカ2:49)また、イザヤ書の56章では、救いが異邦人にまで及び、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とあります。(イザヤ56:7)ルカによる福音書、使徒言行録ともに、エルサレムという場所がことさら強調されているのは、この都が救いの出来事が展開される特別な場所となっているからと考えられます。
また、「父の約束されたもの」とは何でしょうか。その答えは5節にあります。イエス様は「父の約束されたものを待ちなさい」とおっしゃいます。聖霊は父なる神からの贈り物であることをお示しになります。そしてそれは、「待つ」ことを余儀なくされます。「時」が必要であると言うこともできるでしょう。(コヘレトの言葉3:1)けれども、ただ漫然と待つことを意味するのでしょうか?ルカによる福音書11章に『祈るときにはこう言いなさい』とイエス様が祈りを教えてくださいました。「主の祈り」です。13節に「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とあります。祈り求めること・・それこそがイエス様がお命じになった「待ちなさい」の意味ではないでしょうか。
1:5ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。
>>>バプテスマのヨハネは、マタイによる福音書3:11でこのように述べています。「私は悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方はわたしよりも優れておられる。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」
聖霊と火とはなにを意味するのでしょうか。エレミヤ書23:29に「わたしの言葉は火と似ていないか、岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。」とあります。このことから、火とはみ言葉の力に満たされることを意味していると思われます。
1:6さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、
この時ですか」と尋ねた。
>>>弟子たちの問いには「イエス様がこの国の指導者として立たれるのはこの時ですか?」といった、イエス様に対する期待がうかがえます。
1:7イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
>>>イエス様は、そのような弟子たちの思いを諭します。
1:8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
>>>聖霊という父なる神の力をうけて、私たちはイエス・キリストの証人となるのです。
「あなた方が、聖霊の力をうけて、イエス・キリストの証人として、福音を宣べ伝えていくものへと変えられていくのです・・」と、イエス様は弟子たちに話されました。そして、これはまさに国が建て直る以上に壮大なご計画ではないでしょうか。彼らは実にエルサレムを出発点とし、ユダヤ、サマリア全土、地の果てにいたるまで福音を宣べ伝え、命の危険を顧みず、イエス様の証し人として旅を続けました。どのような宣教がなされたのかは、のちの章で明らかになります。
1:9こう話終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
>>>イエス様は弟子たちにこう話されると、天に上っていきました。雲は、旧約時代から神さまの臨在の象徴でした。弟子たちが呆然とそれを見つめていた様子が分かります。きっと口も開いていたに違いありません。
1:10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
<<<イエス様は天に上られたまま、もう今までのように地上には戻っていらっしゃらないことを弟子たちは直感したのでしょう。離れ去るイエス様を弟子たちはその方向である天を見つめて心もとない思いを感じていたことでしょう。
すると、白い服を着た二人の人が、そばに立ちます。いつの間にいたのでしょうか。彼らが上を向いてぽかんとしていたその時に二人の人はもの音もたてず、傍にいます。
1:11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
<<<この二人の人の言葉により、弟子たちは我に返ります。復活のイエス様が自分たちに託されたこと、父から約束された聖霊を受けること、イエス様の証人としての宣教の働きが待っていること・・それらが思い起こされたことでしょう。
この弟子たちの命がけの宣教活動の末端に私たちの教会があります。今回の聖書箇所では、聖霊を受ける前の弟子たちの姿も見うけられます。彼らは、普通の人々でした。皆それぞれの経歴、経緯を持ちながら、時に戸惑いながらも、ともかくイエス様を信じ、付き従った人たちでした。その弟子たちが、のちに聖霊の力を受け、イエス様の証人として、広い世界へと宣教の業に遣わされました。父なる神は、聖霊というなんと大きな力を与えてくれるのでしょう。
イエス様が天に上られたあと、弟子たちはエルサレムに帰り、たえず神殿の境内にいて、神をほめたたえ、またある時は泊まっていた家の上の部屋に上がり婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた、とあります。(使徒言行録1:13、14)イエス様は命じられました。エルサレムを離れず、まず、聖霊の導きを求めて祈り待つこと。祈りとみ言葉と聖霊に満たされて、はじめて私たちは証し人として宣教の業につけるからです。イエス様はそのような私たちと共にいて、この地上で働いてくださいます。もうひとつ、イエス様は、「祈る」ことと同時に「待つ」ことをお命じになっています。み言葉に満たされ、聖霊をいただくその時をひたすら祈って待つことをイエス様はまた求めておられます。聖霊を通じて父なる神はその時をも指示してくださるのです。イースターを控えた今この時を主に感謝し、イエス様の復活の喜び、聖霊による力を受け、み言葉によって与えられた使命をもって、私たちはそれぞれの場でイエス様の証し人として用いられるよう共に祈りたいと思います。