使徒言行録9章1~19節「主が選んだ器」 サウロの回心…主の選ばれた器として相手を見る
テーマ 主イエスの視点でものごとを見る…
黙想のポイント
1 主イエスはクリスチャンを迫害し、殺害さえしたサウロをどう見ておられたでしょうか?
2 アナニアのサウロの味方はどう変化して行ったでしょうか?
3 サウロの心境の変化を黙想しましょう。それは彼の態度にどのように表れているでしょうか?
◆サウロの回心
9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、
>>>出だしから、「なおも」とは、少し前の7章から8章1節の箇所で語られているステパノの殺害とサウロがそれに関わり、賛成していたという内容を受けて書かれています。彼は本気でクリスチャンを神の敵と信じていたことが伺えます。
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
>>>大祭司からの正式な書面をもらってから行動を取るサウロの行動から、彼が令状を手に指名手配犯を負う警察のような役割を担っていたことが分かります。当時、この迫害にあっていたのは男性ばかりではなく女性信者も同様だったこともこの内容から伝わって来ます。また聖書教育誌でも言及されているように「この道の者を」という表現が当時のキリスト教徒へのイエスという言葉すら使う気になれない心情をよく表しているのではないでしょうか。
9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
>>>ダマスコ途上で突然光に包まれ、主イエスの声に接したサウロでしたが、主イエスはサウロの迫害をご自身への迫害として語ります。ここに今月の主題に関連する大切な主イエスの視点が登場します。隣人の試練・苦しみ・問題をご自分のことのように受け止めている主イエスの視点です。
9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
>>>主イエスは彼に二つのことだけを告げます。そのままダマスコの町に行くことと彼に何をなすべきかを告げる使者を待つことが告げられます。こうして彼にしばし考える時間が与えられます。
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
9:8 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。
9:9 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
>>>サウロは起き上がった時、目が見えなくなっており、生涯目が見えない障害を負う罰が与えられてしまったと考えたかも知れません。人々の助けを借りながらダマスコの町へ行きます。彼は次の主イエスの指示があるまで断食をして過ごしたことが語られています。この間、どのようなことを思いめぐらしていたのでしょうか。大きな戸惑いがあったに違いありません。これまで自分が信じて来たことが全くの誤りであったことを自覚するだけでなく、自分が一番正義だと思っていたことが実は逆だったということを知った衝撃はいかほどだったことでしょうか。
9:10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
>>>パウロと違い、アナニアは語りかけたのが主だとすぐに理解できました。果たして私たちだったらどうでしょうか。空耳か何かと聞き流してしまわないでしょうか。主の声にアナニアのようにいつでも敏感であれたらと思います。
9:11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。
>>>アナニアに驚くべき指示が主からなされます。タルソス出身のサウロと言えば当時クリスチャンならだれもが恐らく震え上がるか、苦々しい思いをもったであろう迫害者サウロを指すことになるからです。そのサウロがどこに現在いるのかが正確に伝えられます。まるで現代の携帯ナビのように「直線通り」といういかにも分かりやすそうな通りに面しているこれまた分かりやすいユダという人の家に滞在していることが告げられます。そして彼が今何をしているかということまで…彼は祈っていたのです。…果たして何故、どんなことを…これがアナニアの疑問であったはずです。
9:12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」
>>>アナニアが何のためにサウロに会いに行かなければならないのかがここで明確になって行きます。サウロの目が癒されるように執り成し祈るためでした。
9:13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。
9:14 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」
>>>さすがにアナニアは戸惑いを隠しません。サウロがどのような人間なのかを良く知っており、彼を赦せない思いを持っていたことが伺えます。
9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
9:16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
>>>しかし、そんな彼に主の容赦ない命令が与えられます。そして、主が選んだ器だと宣言されるのです。
9:17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」
>>>アナニアは主のご命令を速やかに実行したことが語られます。むしろ言葉数少なげにすぐにサウロの目が再び見えるようになるようにまずは祈ったことが伺えます。しかし、それだけではありませんでした。彼はサウロのために目が癒されるだけでなく、聖霊で満たされるようにとも祈りました。そして、それも主から託された使命だと理解していたことが彼の言葉から分かります。これはどういうことでしょうか。彼はそのような命令を12節では直接受けていないはずですが…。しかし、それはアナニアが16節で主イエスが語られたことを彼なりに真剣に考えた結果だったのではないかと考えられます。つまり、主はサウロに主の僕として今後どれほど大きな試練に遭わなければならないかを知らせようとされていたので、そのためにはサウロが聖霊に満たされなければ到底そのようにはならないことを理解したということです。そこでアナニアは、主のご計画通りにことが運ぶために自分にできる最善のことは何かを考えたわけです。別のいい方をすれば、主イエスだったらこの場でどのような祈りをされるかを考えて実行に移したということです。彼は正しく自分の使命を理解し、それを忠実に実行したと言うことができます。それはきっと心情的には簡単なことではなかったはずです。しかし、15節にある通り、「あの者は…私が選んだ器」としてサウロを主イエスの視点で見つめ直した時に初めて可能になるのではないでしょうか。その証拠に彼はかつての敵であったようなサウロのことを「兄弟サウロ」と呼びかけています。もはや迫害者サウロではなくなっていました。彼と同じく罪を贖われ、主の僕とされた兄弟としてサウロを取り扱ったのです。
9:18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、
9:19 食事をして元気を取り戻した。
>>>サウロが癒されるや、すでに心は定まっていたようです。すぐにバプテスマを受け、元気を回復してから数日後には伝道を開始していました。使徒パウロの誕生です。そして、その著しい伝道者としての道のりにはアナニアを始め、ナルナバやアクラとプリスキラ、シラスやルカ等、常に主が与えて下さる協力者たちがいたのです。私たちの今週の歩みも常に主の御声に耳を傾け、主の視点でものごとを見、考え、主が示される者の協力者となり、執り成し祈り、主の僕としての業に励んで参りましょう。それは、必ずしも私たちが積極的に関わり合いたいと思わないような人物であるかもしれないことを念頭に置きながら…。しかし、アナニアのような僕がいたからこそ、その後のサウロの活躍があったのです。私たちの小さな従順が将来どのように主が選ばれた器の役に立つのか知る由もありませんが、そのように役立つことができれば幸いではないでしょうか。