ルカによる福音書18章9~14 節 「十分の一献金の信仰」
総合テーマ スチュワードシップ
・今月のみことばの学びの視点…その1
与えられている財産を何に一番用いるべきか?
・今月のみことばの学びの視点…その2
何に時間を費やすことが最も大切か?
黙想のポイント1
・何が二人の神の評価を分けているのでしょうか?
黙想のポイント2
・十分の一献金とはどのような基準また信仰で捧げる献金を言うのでしょうか。この機会に十分の一献金の聖書的根拠を確認しましょう。
今月の学びをはじめるにあたって…
今月は総合テーマとしてスチュワードシップについて御言葉から学んで参ります。
主題聖句はⅠペテロ4章10節
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」
◆「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
>>>このたとえの問題点は最初に明らかにされています。自分を正しい人間だとうぬぼれていて、他の人を見下しているファリサイ人に対して、自分は罪深いことを自覚していて、心から神の憐れみと赦しを請う祈りをしている徴税人のへりくだった祈りの対比が明確になっているたとえです。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
>>>ファリサイ派のこの人は確かに聖書の教えを他の人たちよりも重んじて実践していたことでしょう。彼は大きく分けて、ここで二つの祈りを神にしています。一つ目は自分が他の人たちと比較して、してはならないという戒めを守っている人間だという他人と比較しての自己評価(自己義認)です。もちろん、彼の日頃の努力あってのことでしょう。聖書には何々をしてはならないという戒めがたくさんあります。それらをできるだけ忠実に守って来た人だと言うことができます。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
>>>二つ目は他の人たちがなかなかできないでいることまで自分は頑張ってできているという自分の努力に対する自己評価(自己義認)です。前の節のことはしないことによって達成できるわけですが、この節のことは自発的に努力しなければ実現できないものだと言えます。彼の自己評価の基準は一見、神の教えにどれだけ忠実に生きているかどうかにあるように見えますが、そこにはむしろ他人との比較によって見出してる自己義認があるように思えます。
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
>>>徴税人の方の特徴もまた二つあげたいと思います。彼はまず他人との比較は一切ないということです。自分自身の罪を深く自覚し、神の御前にその罪を恥、なんとかそのような自分から抜け出したいとの思いが伝わって来ます。もう一つは神に近づくなど到底できないという神に対して感じている距離感です。彼はもっと近づきたいけれども、近づけないからこそ見せている態度です。徴税人の方の自己評価は神の目に映る自分の生き方に対するものだと言えます。彼もまた他人と比較することはできたでしょう。誰誰の方がもっと悪いことをしているので自分はまだましだとか、他の人もやっているので自分も不本意ながらやっているのだと開き直ることもできたでしょう。しかし、彼は神からどれだけ離れてしまっている自分がいるかを自覚し、自分の罪を悔い改めているところに神の義があるように思います。
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
>>>このたとえでは、何をどれだけしたとか、何をどれだけしていないということが問題なのではなく、神にしかできないことを神に願い求めたところに神の義があるのではないでしょうか。そのためには、神の御前にまずは自分が何者なのか、つまりどれほど罪深い存在であり、神の憐れみと罪のあがないなしには到底生きる資格さえないことを弁え、謙って祈る必要があるのです。
*今回のたとえの深みを理解するために、もう一歩進んでファリサイ派の人が自慢していた「十分の一献金」とは何かを理解して置きたいと思います。まずは、ルカ福音書11章42節で主イエスが十分の一献金について言及している箇所を見ましょう。
「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。」
>>>ここで注目したいのは、主イエスが捧げる心を問題にしていることと、十分の一献金は疎かにしてはならないと明言していることです。十分の一献金は主イエスも認めておられた大切な神の御前に捧げる献金であったことが分かります。それでは、どのような信仰が大切なのか、そもそも十分の一献金の元となった旧約聖書の出来事を次に確認しましょう。
*聖書に最初に登場する十分の一献金は創世記14章に登場します。
14:18 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。
14:20 敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。
>>>ここに永遠の大祭司であるイエス・キリストの原型とされるメルキゼデクというサレムの王が登場し、アブラハムが甥のロトとその一族を無事に強大な敵から救出できた時にその功績はすべて神にこそあることを語りながら祝福の祈りを捧げた時に、アブラハムもまた彼にすべての戦利品の中から十分の一を贈っています。厳密に言えば、これは貢物ですので献金とは違いますが、アブラハムが最大限の敬意を払って捧げた基準は十分の一でした。そして、そこに込められていた感謝とは、神の手によって自分と自分の身内一族の命を守って下さったことへの最大の感謝を現わすためでした。アブラハムはメルキゼデクを神が遣わされた特別な使者と理解してのことと考えられます。
*次に十分の一献金の型が登場するのはアブラハムの孫にあたるヤコブの時です。
28:20 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、
28:22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」
>>>これはヤコブの過ちのために自分を殺そうとしていた兄の手から逃れ、ベテルという場所で石を枕に寝ていた時に夢で神のお告げを聞いた後で神に対してした誓願でした。ここで明らかにしていることは彼の命が無事に守られて再びこの場所に戻ってくることができた際には、その感謝の印、そして自分に現れた神を自分の神として生涯最大限の敬意を表すための基準として神から与えられたもの全ての中から十分の一をお返しする(神のご用のためにお捧げする)というものでした。…そして、彼はその祈りの通りにことが進むことになるのです。これがやがてイスラエルと名を改める人物の神への特別な献金信仰だったのです。祖父同様、自分と身内の命が購われていることへの感謝と最大限の敬意を表す捧げものとして全収入の十分の一を神にお返しするという信仰です。
*レビ記27章では十分の一献金が律法としてその後登場することになります。
27章30節 「地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。」
>>>ここではすべて主から与えられるものの十分の一は主なる神に聖別して用いることが語られています。つまり、神の神殿=今日で言う教会に捧げられるものとして聖別するということです。これらの箇所から導き出される十分の一献金の信仰とは、第一に十分の一献金は自分と家族の命と罪のあがないへの最大の感謝と敬意を表すものとして捧げることと、第二に神様のご用のために聖別して捧げることにあると言えるのではないでしょうか。果たしてファリサイ派の人はこのような精神で十分の一献金をしていたのかどうかが祈りの内容からして疑わしいと言えるのです。十分の一献金は義務を果たしたかのようにして捧げることができない献金です。自分と家族の全存在が神にかかっていることを意識し、神からすべてのものは与えられていることを自覚し、最大限の敬意を込めた印としての十分の一を献金することが十分の一献金の信仰と言えるのではないでしょうか。この信仰が伴ってこそ、十分の一献金は神の御前に義とされ、受け入れられるものとなるのです。十分の一献金は神から託された大切なスチュワードシップだと言えるのではないでしょうか。
*現実には十分の一献金はなかなか実践できないでいる人も多いのではないかと思います。様々な借金や家族のために蓄えなければならない費用が多く存在します。そのような時にこそたとえに登場する徴税人のように祈ることが赦されています。そうするならば、たとえファリサイ派の人のように十分の一献金を捧げることができないでいたとしても、神の御前に義とされる道が開かれるのです。このたとえに現れている私たちへの主の憐れみに感謝します。