ルカによる福音書16章1~9節 「永遠の住まいのために」
総合テーマ スチュワードシップ
・今月のみことばの学びの視点…その1
与えられている財産を何に用いるのが有意義か?
・今月のみことばの学びの視点…その2
何に時間を費やすことが人生において有意義か?
◆黙想のポイント
1.主人は不正な管理人の何を一番ほめているのか黙想しましょう。
2.このたとえで主イエスが一番いいたいことは何でしょうか。
今月の学びをはじめるにあたって…
今月は総合テーマとしてスチュワードシップについて御言葉から学んで参ります。
主題聖句はⅠペテロ4章10節
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」
今回の16章の話しは前回の15章と連動しています。罪人が悔い改めへと導かれることがどれほど神に喜ばれることかが三つのたとえを通して語られました。罪人や取税人たちと主イエスが一緒にいることを快く思わないファリサイ人や律法学者たちを意識した教えです。主イエスは自分がこの世に神から遣わされた優先順位の高い使命は何だと考えているかを知らせ、また神様に授かっている人生において何が大切なのか、神に与えられている人生、命、家族、財産、時間、能力、使命や職業、健康、その他をどうかしこく用いるのか、つまりスチュワードシップ(管理者精神)と言うテーマについて集中して語っておられます。たとえは三つとも財産にまつわるものでした。羊飼いにとっての羊、高価な銀貨、親にとっての子どももそうです。大切な財産にまつわる話しなのです。そして特に三番目の「放蕩息子」として有名なたとえはお金持ちの家に生まれた二人の兄弟の話しで弟は財産を浪費し、兄は父の財産の用い方に納得がいかず、反抗するという内容になっていました。つまり兄は放蕩の限りを尽くした弟に父が財産を惜しみなく用いていることに納得いかない様子が描かれているのです。これらの話しを律法学者やファリサイ人たちも聞いていました。大抵はお金持ちに分類される人たちです。今風に言うならば勝ち組に分類される人々です。主イエスは彼らにも語っているのです。そして今回のたとえも同じでした。不正な管理人のたとえはまさにスチュワードシップがテーマになっていました。しかし、14節に語られているように「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑」い、そのメッセージを理解しません。そのたとえの意味を私たちは理解できたでしょうか。
前回15章のたとえではせっかく金持ちになった弟はかしこく、正しい財産の用い方をすることができない失敗例として登場しています。そして、父親こそが財産を有効に用いている人物として登場しているのです。父親は財産を用いて多くの人を雇って事業をしていました。そして、お祝い事がある時にはおしみなくそれを用いてみんなと喜びあうために用いたのです。前の二つのたとえも思いだして下さい。羊が無事に見つかった時も、銀貨が見つかった時も、その持ち主は「見つかってああ良かった、良かった」で終わっていないのです。見つかったその後で周りの人たちに一緒に喜んでくれるように誘っています。おそらく何かを振舞ったのではないかと考えられます。お金や財産は価値あるものだと認識しながらも、それよりも価値あるものがあることが同時に語られているのです。
これらのたとえを前提に、今回の不正な管理人をほめた主人のほめた理由は何かを考えたいと思います。一見それは8節で主人が語っているとおり、管理人の抜け目のないやり方のように思いがちですが、果たしてそうでしょうか。管理人がやったことは犯罪行為です。本来やってはいけない間違った行為です。自分の不正のために仕事を首になった際には、恩を売っておいた不正を働いた共犯者たちに助けを求めることができるようにするという巧妙なものでした。主人がほめているのは決して犯罪行為そのものではありません。また、不正な管理人の悪る知恵ではありません。主人が本当にほめたかったのはそこではないことが主イエスのその後の言葉でわかってきます。そもそもそのたとえは主イエスがいいたいことを伝えるため(スチュワードシップを教えるため)のたとえでした。そして主イエスが述べた結論とは、9節の「富みで友達を作りなさい」という部分だと考えられます。不正な管理人は主人から託された帳簿と管理人としての立場を利用して互いに利益を共有する仲間を作ったわけです。そうすることによって将来自分にとって得となると考えての行動でした。主人の財産を不正に用いてでも自分と自分の仲間の利益のためになることをすること、これは契約違反なわけですが、天の父なる神はまさに自分のためだけでなく、他の人も一緒に喜ぶことができることのために託したものを用いてくれることを喜び、期待する神です。従って、主人から託されたものを正しい仕方で主人と自分と隣人の利益となるようなことのために用いるならば、どれだけその管理人はさらに高い責任ある地位に付けただろうかということになります。
そして、このたとえは律法学者たちにも向けられていたわけです。神の国の福音は、自分たちのためにだけ用いるのではなく、隣人のために用いて、一緒に喜び合うことこそ神に喜びれることだと言うわけです。そうすれば、そのような人には9節後半にあるように「永遠のすまい」つまり天国において生前に関係を深めた多くの隣人に「迎えてもらえる」そんな喜びに溢れた神の国における人生が開かれることを主イエスは語っておられると考えられるのです。私たちは永遠の住まいに向けて、一緒に喜びあえる隣人をどれだけ作っているでしょうか。それが問われているのです。
最後に不正にまみれた富とは、天国に持っていけない財産のことであり、もともと私たちがなかなか神の御心に沿うように用いることができないでいる財産を指して言っているようです。財産自体は悪いものではないこと、また富を得ることも悪いことではないことは言うまでもありません。しかし、財産そのものは人を本当の幸せにも天国にも導くことはできません。財産の用い方次第でそれは隣人と共に幸せに神の国で生きるための有効な手段になるということです。結論として、財産は隣人と一緒に喜ぶことができることのためにできるだけ用いなさい。それが賢く、天国まで持っていける財産になっていくと主イエスは語っておられるのではないでしょうか。
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2月25日(水)午前の聖研祈祷会の時に参加メンバーが分かち合って下さった中から三つほど参考のために追加致します。
・「不正にまみれた富」は「この世の富」として理解して読むと分かりやすいのではないか。
・9節の「そうしておけば、金がなくなったとき、永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」のところで金がなくなったとき、とは「死んでお金が他人に移って自分のものでなくなった時」と理解すると分かりやすいですね。
・テモテの第一の手紙6章17~18節も今回の学びに関連している聖書箇所だと思いました。
6:17 この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
6:18 善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。