ルカによる福音書10章25~37節 「善いサマリア人」
総合テーマ 罪の赦しがもたらす幸い
・今月のみことばの学びの視点…その1
自分の罪を自覚する時に導かれること
・今月のみことばの学びの視点…その2
他人の罪を裁く時に陥ること
◆黙想のポイント
1.この箇所のテーマはどこにあるのでしょうか。どのような信仰に導かれることがねらいなのでしょうか?有名な箇所ですが、果たしてどれだけ私たちはこの箇所の内容を理解しているでしょうか。
2.たとえ話し以外から聞こえてくる神の言葉に今回は重点を置いてみましょう。
◆善いサマリア人
10:25a すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。
>>>この箇所は「すると」という言葉から始まります。明らかに前の箇所の何かを引きずって今回の箇所に入っていることが分かります。前の箇所で律法の専門家が引っかかっている内容があるとすれば、おそらくそのひとつは主イエスが「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」という箇所でしょう。律法の専門家ですから、自分のことを知恵ある者・賢い者との自負があったはずです。ですから、この人物は自分たちに隠されていることとは何なのか、いや神がわざと自分たちに隠すようなそんな真理などあるはずがないと考えてもおかしくないはずです。29節で「自分を正当化しようとして」とありますが、そもそもすでに彼は前段階で自尊心を傷つけられていると言えるのかも知れません。自分たちには理解できないでいて主イエスと弟子たちには理解できていることは何か。律法の専門家は試さずにはいられなかったことから今回の質問は始まっているものとして考えてみたいと思います。今後は律法の専門家のことを「専門家」と省略して書くことにします。
10:25b「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
>>>専門家は何故、このような質問をしたのか。永遠の命を受け継ぐ方法についての問いを主イエスに投げかけたわけですが、おそらくこの問いは専門家たちの間では繰り返し議論されて来たものであり、返答次第でその人の聖書理解の深さがある程度分かるような案外奥が深い質問だったのではないかと考えられます。何故なら、永遠の命を受け継ぐというテーマは旧約聖書全体の重要なテーマであったに違いないからです。専門家は自分が聖書理解において主イエスに負けるとも、劣らないことを証明するためにこの質問で糸口をつかもうとしたのかもしれません。
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
>>>これに対し、主イエスは直接返答する代わりにもう予め専門家の方では自信満々に用意しているであろう回答を聞くことにしました。逆質問された専門家は自信を持って答えたことでしょう。主イエスがその答え以上の優れた答えを出せない限り、自分と主イエスの聖書理解は少なくとも同等のものであることを証明することができるからです。そうすると、自尊心は回復し、知恵ある者たちには隠されている真理など取るに足りないことにもなるはずでした。
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
>>>この回答は模範解答中の模範解答だったのではないかと考えられます。だれもが認めざるを得ない回答のひとつだったことでしょう。専門家はこの回答以上の答えを主イエスは出せないはずだと考えながら答えたことでしょう。
10:28a イエスは言われた。「正しい答えだ。
>>>しかし、主イエスの返事は意表を突くものでした。その答えに対抗して別の模範解答をするというのでもなく専門家の回答を真正面から肯定したのです。しかもその上で予想もしていなかったことを付け加えました。
10:28bそれを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
>>>まさか、このように主イエスが返事を返してくるとは思っていなかったのではないでしょうか。専門家が慌てたのが想像できます。一方で私たちもこの主イエスの返事に自分自身を問われる必要があります。聖書の中心的なテーマであり、天地の主である父なる神様(10章21節引用)の御心がそうであると理解しているならば、確かに実行あるのみです。ところが私たちの現実は議論ばかりして肝心の実践を怠ったり、どんなに大事な教えだと頭では理解していても実際には十分に実行に移せない現実があるのではないでしょうか。主イエスは専門家を始め、私たちが神の御言葉の前に不完全な存在であることを見事に暴き出して見せる知恵に満ちた回答となっているように思えます。
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
>>>この主イエスの返事によって問題は全く別のものに移行してしまいました。つまり、専門家はどれだけこの聖書の中心的な教えを実践できているかという問題に。こうなると専門家は防戦一方になってしまいました。もはや容易には他人と比較できないその人自身の問題となってしまったからです。そこで彼が用いた技法こそ、我々が神の御前で絶えず持ち出す時間伸ばしの技法でした。つまり、新たな疑問を持ち出すことによって自分が実行すべきことを遅らせるというものです。専門家は「隣人」の定義を主イエスにさらに問うことによって体裁を繕おうとしたのではないでしょうか。しかし、主イエスは数段上手でした。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
>>>今回はたとえ話の詳細な解釈には踏み込まないことにします。但し、ここには私たちが簡単には実行できないほどに憐れみ深いサマリア人の姿が描かれています。主イエスはこれまただれもが同じように返事をするであろう分かりやすいたとえを用い、しかも専門家たちが名前を口にするのも嫌がるサマリア人を善人に仕立ててブラックユーモアも交えながら語りました。
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
>>>主イエスはたとえ話を語った後で、またもや逆質問しました。しかも、専門家が愛を示す対象となる隣人とは誰かと質問したのに対して、主イエスは誰が隣人になったのかと考え方を逆転して見せたのです。ここでもまた、専門家本人の実行力が再び問われる結果に戻ってしまったのです。
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
>>>隣人を愛するためには、まず自分自身が憐み深い者とならなければならないことを主イエスは教えられたのです。果たして専門家は自分の内側を変えることのできる救い主、主イエスの前でどのようにこのお方の言葉を受け止めたのでしょうか。幸い私たちには自分の弱さや信仰の課題を相談し、分かち合い、祈り合う信徒集会が豊かに存在します。教会学校、祈祷会、その他の教会の交わりの機会を通して私たちは信仰を実践していく者に変えられていくことができます。
直前の箇所で主イエスは
10:24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。
>>>と言われました。今日、私たちも主イエスの御言葉を聖書を手にして聞く幸いを得ています。今回の御言葉に私たちはどう応答していくことができるのか、互いにそれぞれの課題を分かち合い、祈り合っていきましょう。