ルカによる福音書15章11~32節 「見つかった息子」
総合テーマ 罪の赦しがもたらす幸い
・今月のみことばの学びの視点…その1
自分の罪を自覚する時に導かれること
・今月のみことばの学びの視点…その2
他人の罪を裁く時に陥ること
◆黙想のポイント
1.罪を悔い改めるとは、どうすることを言うのでしょうか?
2.人が本心から罪を悔い改める時に父なる神はどのように受け止めて下さるのでしょうか。
今回の聖書教育誌は「おはなし」担当の溝上哲朗先生(久留米荒木教会)、「聖書の学び・成人青年科」担当の松坂克世先生(旭川東光)、「少年少女科」担当の内藤幹子先生(目白ヶ丘)それぞれが互いに聖書箇所の内容について補完し合いながら読者をより深い理解へと導いている良い例ではないかと思います。先生方がまずそれぞれにみことばに傾聴し、示されたことを分かち合って下さり、それを今度は私たちがそれぞれの語ることに耳を傾ける時、自分だけでは気づき得ない真理を知らされ、単独の担当者の解説だけでは気づき得ないこの箇所の深さが立体的に見えてくるから不思議です。教会学校で互いに分かち合うことの大切さを改めて示して下さっていることを感謝したいと思います。
今回の聖書箇所は最も有名な聖書箇所のひとつですので準備される先生方も大変だったのではないかと思います。そのような箇所であるにもかかわらず、やはりそれぞれに豊かに主からの語りかけを聞いておられることに励まされます。
「おはなし」では溝上先生はこのたとえのもととなったファリサイ人や律法学者たちの人を裁く様子や物語の中で兄が父や弟を裁くところに目を向けさせつつも、そんな彼らにも神様が温かいまなざしを向け続けていることに気づかせてくれます。
「聖書の学び」では松坂先生はこの箇所の前に語られているいなくなった羊の話しや無くなった銀貨のたとえと今回のたとえとの関連を明確にし、当時の罪人と言われる人たちの定義、遺産相続と生前贈与の違い、たとえの中で父親が見せる「憐れに思い」という言葉の重要性など、この箇所を理解するための基礎的な前提を丁寧に説明して下さっています。個人的にはたとえの中で兄が「あなたのあの息子」と弟を他人事のように語ったのに対し、父が「おまえのあの弟」と寛容に言葉を返している箇所から「罪人と指さす人々はあなたがたの兄弟なのだ」と読みとって下さっているところにはっとさせられました。
「少年少女科」では内藤先生はたとえの父親の揺れ動く感情や本来とってもおかしくなかったもっと別の態度にも目を向けさせてくれています。私たちはついこのたとえで登場する父親を父なる神と重ね合わせがちですので父親の欠点や弱さなどにはあまり目を向けないで済ませるところがありはしなかったか、反省させられました。
そして、これらすべての先生方が共通して今回強調して下さっているのは、自分の罪を悔い改めて戻って来た弟にも、弟や父のとった行動を裁き、赦せないでいる兄や現実のファリサイ人や律法学者にも温かい目を向ける父や主イエスの眼差しがあることに気づかされます。
このように今回は聖書教育誌の先生方の説き証しにそのままお任せしてもいい気も致しますが、これらの先生方の話しを受けて、私が導かれた視点についても分かち合っておきたいと思います。それは今月の総合テーマや御言葉の学びの視点とも関係あるものです。
そもそも今回の聖書箇所はその前にある二つのたとえである「見失った羊」と「無くした銀貨」に続くたとえとなっています。そこには人が罪を悔い改めることへの並々ならない父なる神と天の御使いたちが示す関心と天における喜びが描かれています。
・15章7節 「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(失った羊)
・15章10節 「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(無くした銀貨)
これらの箇所にはどれほど悔い改めることが重要なものと父なる神と天の御使いたちが考えているかが伝わってきます。もしあなたがすでにクリスチャンなら、あなただけのために天において大きな喜びがわきあがった過去があったことを意味しています。それを考えるだけで感動します。神はそれほどまでに私たちの罪の悔い改めを望み、喜んで下さるのです。私たちが伝道する理由も、この理由ひとつをとってもやり甲斐があるのではないでしょうか。
今回の箇所にはこのテーマが受け継がれています。放蕩息子はどのような悔い改めを導かれているのでしょうか。彼が財産を使い果たし、落ちぶれてしまった時に父親の財産を使い果たしたことを後悔したり、そもそも父親の財産を生前贈与してしまったことを悔い改めているでしょうか。そのようなことは何も報告されていません。聖書が強調しているのは次のことです。
・15章17~19節 「そこで、彼は我に返って言った。『…ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』」
ここで表現されていることは彼が神と父親に対して取りかえしのつかない罪を犯したという明確な自覚が生じたことです。そして、それを正直に本人に伝えて罪の赦しを請う決意をしたということです。そしてそうまでして彼がたどり着いた結論というのは、自分の居場所はやはり父のもとにしかないということでした。本来いるべき自分の立ち位置に戻ること、これこそ「悔い改め」という言葉の意味でもあります。神の前に自分の罪を認め、罪の赦しを神にへりくだって請うこと。その上で神とのあるべき人生に立ち返ること。それこそ神が望み、喜んでくださる罪を悔い改めることの具体的な例として3つ目のたとえはその役目を果たしているのです。
最後に罪を悔い改めて父のもとへぼろぼろの状態で戻って行った息子を父親がどのように迎えたかを見てみたいと思います。
・15章20節 「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
ここに描かれているのは子どもが罪の赦しを請うことも、これまでの詳しい報告も、どんな用事で戻ってきたのかなど一切の説明を受けることなしに、ただ息子が帰って来たというその事実とその憐れな身なりだけで、父親は自分の方から走りより、彼を抱きしめ、接吻をしたのです。恐らく彼はぼろ雑巾のように汚れ、また異臭を放っていたことでしょう。しかし、それらは父親の子を想う愛情には妨げにならなかったのです。父親の憐みの思いの深さに感動すら覚えます。そしてそれは私たち一人一人に向けて下さる父なる神と救い主イエス・キリストの眼差しにも当てはまることではないでしょうか。どんな罪人もそれまでの罪を悔い改め、神のもとへと立ち返るならば、天では正しい人に勝る大きな喜びがわきあがることに感謝したいと思います。そして、今度は私たちが天でさらに喜びがわきあがるためにお手伝いをする番です。私たちのまわりに裁きたくなる人がいるとしたら、これからはそれを神に喜ばれる機会の到来として捉え「神の憐み」を今度は私たちが実践する番です。私たちは自らに受けたことを他の人に伝えていくだけです。そうすることによって私たちは神の子どもとして生きることができるのではないでしょうか。