ルカによる福音書7章36~50節 「主の足を涙でぬらし」
総合テーマ 憐れみ深い主にすがる信仰
・今月のみことばの学びの視点…その1
自分の罪を自覚する時に導かれること
・今月のみことばの学びの視点…その2
他人の罪を裁く時に陥ること
◆黙想のポイント
1.シモンと主イエスの足を涙で拭う女性との対照的な罪の自覚について黙想する。
2.主イエスがたとえを通してシモンに見るように促したのは何か。言い換えると主イエスはシモンにどんな視点の変更を求めているのか。
1.主イエスを自分の家に食事に招いたシモンはファリサイ派の人物だったことがわかっています。ファリサイ派の人は聖書の教えを忠実に守ろうとして日々精進していたとても信仰熱心な人々でした。通常は社会的な地位も高く、周りの人々からも尊敬され、一目置かれる人であったと言えます。
今回の箇所ではそのような立派な人物と対照させて37節にはっきり書かれているようにその町にいた一人の「罪深い」女性が登場します。この女性は主イエスが十字架にかかられる前にベタニアで重い皮膚病を患ったシモン(ここでシモンという名前が同じなのは偶然の一致だと考えられます。シモンという名はペテロや熱心党のシモンもそうであったように、当時ありふれた名前でした。)の家で香油の瓶を割って主イエスの頭に香油を塗った女性と同一人物と混同するかもしれませんが、全くの別人だと考えられます。類似点は確かにいくつかありますが、これが行われた場所や家や香油を塗った箇所と量から考えても別の話しだと分かります。一番の違いは後者の目的は主イエスの葬りの準備のためであったこと、そしてそれを主イエスは後々まで語り継がれることとして評価されている点です。しかし、今回の香油を塗る行為と目的は全く別のものとなっています。大きな罪の赦しと悔い改めを導かれた者が主に向けた愛の行為でした。
さて、ファリサイ人であったシモンは常日頃から何が罪か頭ではよく弁え、罪を犯さないようにしていた人物でした。一方、女性は自分の罪を自覚していた人物でした。そして、人々から罪深い女性として蔑まれていたと考えられる人でした。このような対照的な二人が主イエスのすぐそばに近づく機会が与えられたのですが、その二人には主イエスを前にしての大きな認識の違いが生じています。そして、それは罪を悔い改める必要があることに対しての自覚の差なのかも知れません。登場人物たちの目の視線にも注目しながら御言葉に聴いて行きたいと思います。
それではまず主イエスの足を洗った女性に目を向けましょう。彼女は主イエスや家の主人に自分を拒否される前になんとかして自分の気持ちを伝えたいと主イエスの背後から足元へ額づいて足を涙で濡らし始めるのでした。主イエスと目を合わせることさえためらっているようでもあります。彼女の無言の行為の中から次のような心の叫びが聞こえて来そうです。「主イエス様、私はあなたの足を直接触って洗う資格など到底ない者でございます。ですが、私にできることと言えば今はこれしか考えられないのです。どうかご理解下さい。私はもはや自分の罪深い生き方に耐えられないのです。私は足どころか全身が内も外も汚れてしまっています。私はこれまでこの罪深い現実をどうすることもできないでいました。それがどういうことでしょうか。あらゆる人々の病を癒し、悪霊をことごとく追い出しておられるあなたさまのお話しを聞いているだけで、心が責められ、私が毎日のように犯していた罪をもうこれ以上決して続けてはならないのだと自覚できたのです。しかも、どう表現していいのか分からないのですが、あなたの御言葉を思い返していると、涙が止まらず、いてもたってもいられなくなるのです。いつも罪を犯すことばかり考えていたこんな私が、あなた様のために何かして差し上げたいという純粋な思いに駆られるのです。あなたさまの足を私の涙と髪の毛で拭い、何よりも大切にしていたこの香油を差し上げるくらいでは到底足りませんが、どうか何卒主よ、私のこの気持ちを受け取って下さい。そして私が二度と元の状態に戻ることのないように私を憐れんで下さい。」
一方シモンはまず自分の家に無断で侵入して来た女性に腹立たしげに目を向け、それがかの悪名高い罪深い女性だと分かり、憤りと軽蔑の念が湧きあがって来たことでしょう。次にそんなこととも知らずに女のされるままにしていたイエスに目を向け、この女の素性を知ったらどんな行動を主イエスは取られるのだろうかと考えるのも束の間、「彼が真の預言者ならばこの女性のことを説明しないでもその素性を理解できるはずなのに」と心の中で思い、そしてその罪深い女性の行為を叱って当然のはずなのになぜいつまでもそのままにさせているのかと主イエスに対して非難と疑念の目を向けだしたことが想像できます。
そんなシモンに主イエスはまず憐みの目を向けます。「あなたに言いたいことがある。」そう言ってたとえ話しをされます。異なる額の借金を返せないでいた二人の人が借金主から借金を帳消しにしてもらうという話しです。そして50日分の借金と500日分の借金を赦されて、より感謝するのはどちらの方かと問い返します。シモンはすかさずより多くの借金を赦された方だと答えます。その通りだと主イエスは応え、次にシモンに「この人を見ないか」と話しの核心に入って行きます。主イエスの結論は主イエスに示す愛の大きさで、その人が悔い改めに導かれた罪の大きさが分かると言うものでした。つまり、この女性はかつては罪深い女性だったかも知れないが、今では神の憐みによって多くの罪を悔い改め、神に赦されたことを無言の行為で証している女性なのだと。神はあなたと同じようにこの女性を赦し、受け入れておられるのだと主イエスはシモンに語ったのです。そして、あなたもこの女性に負けないくらいに神の御前に罪を自覚し、罪を悔い改め、神の愛を隣人に示す者になりなさいと諭しておられるのです。たとえ話しに登場する借金主のように、神は罪を正しく悔い改められないで来たシモンと女性のどちらの罪も赦そうとされる神なのです。
続いて主イエスは女性の方に今度は向き直ります。そして「あなたの罪は赦された」と彼女のこれまでの人生を最も苦しいものにしていた問題に対して何よりの癒しと解放となる言葉を与えられました。その上でこれからの新しい人生の歩みを祝福するかのように「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言い、彼女に温かい励ましと平安を送っています。…私たちの態度や行為はどれだけ罪を悔い改め、赦された大きさを現しているでしょうか、考えさせられます。
【新共同訳】ルカ福音書
◆罪深い女を赦す
7:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
7:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
7:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
7:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
7:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
7:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。