ヨハネによる福音書1章43-51節「来て見なさい」
総合テーマ 神の子となるための条件
黙想のポイント
その1 主イエスとの出会いを大切な人々につなげていくことの大切さ。
その2 主イエスを自分なりの確信のこもった言葉で伝えることの大切さ。
12/27>>>
◆フィリポとナタナエル、弟子となる
1:43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
1:44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
>>>主イエスがアンデレの兄弟シモンと出会い、ペテロというあだ名を付けたその翌日のことです。今度は4番目の弟子となるフィリポに出会い、なじみの招きの言葉「わたしに従いなさい」と声をかけました。不思議なことにフィリポもまたイエスに従うようになります。主イエスにはなんらかの人を引き付ける魅力があったということでしょうか。フィリポはペテロたちと同じベトサイダ出身であったことが語られるのみです。ベトサイダはガリラヤ湖のちょうど真上に位置するカペナウムよりも若干右上に位置する町でした。フィリポはなぜイエスに従うことを決心したのでしょうか。当時の人はそんなに簡単に人を信用し、簡単に誰かに人生を委ねるような人たちだったのでしょうか!きっとそうではなく、主イエスに何らかの特別な魅力があったのではないかと考えないとにわかには信じられない最初に主イエスの弟子になっていく十二弟子の中の最初の4人です。
1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
>>>先にはアンデレが自分の兄弟のペトロをイエスに導いたように、今度はフィリポが面識のあったナタナエルに出会って、イエスを旧約聖書が預言している救世主であるかのように説明しながらも、なんら聖書を読む限り、それとは関連のないナザレという町出身の人物の名前を口にしました。
1:46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
>>>ナタナエルの返事から、彼がフィリポよりは聖書の内容に詳しい人物であったことが分かります。旧約聖書からはダビデ王の家系、そしてダビデの出身地であるベツレヘムから救い主が出ることは予想できても、ナザレからとは書いてないからです。フィリポにとってナタナエルの返事は彼の期待を裏切るような率直な応答だったのかも知れません。しかし、フィリポはナタナエルと議論を展開する代わりに「来て、見なさい」、つまり百聞は一見にしかずという仕方で自分もそうであったように直接イエスという人物に出合うようにナタナエルを誘います。このフィリポの伝道の仕方にも我々が学ぶことができるヒントがあるのではないでしょうか。
1:47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
1:48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
1:49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
>>>この箇所を見る限り、ナタナエルが主イエスに十分近づく前にイエスの方から一方的にナタナエルの人柄についてとても高い評価を下す会話が始まっているのが分かります。案外ナタナエルはイエスという人物に合った上でフィリポに反論してイエスが彼が思っているようなメシアではないことを説得してやろうと作戦を立てていたかも知れません。しかし、そのような機会は訪れることはありませんでした。主イエスは先手を打たれたのです。まだ十分に近づいてもいないナタナエルにも聞こえるように主イエスはナタナエルのことを少なからず知っているような口ぶりで彼の人柄を評価して見せたのです。これにはさすがのナタナエルも「どうしてわたしを知っておられるのですか」と尋ねるところから始める以外になかったのではないかと思います。するとさらに主イエスは以外な返事をすることになります。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と。それだけでナタナエルがその後はイエスへの態度を180度転換して大賛辞を贈っているのはどうにも理解できない展開ですが、ここにはどんな経緯があるのでしょうか。
イスラエルにおいてはいちじくの木の下やぶどうの木の下は経験なユダヤ人たちが好んで祈り、聖書を黙想する場所だとされています。ナタナエルもそうしていたのを主イエスは見抜いたのだと考えられます。バークレーの注解書ではさらにもう一歩踏み込んで、ナタナエルがそこでメシアの到来を密かに熱心に待ち望んでいたのを主イエスが見抜いているかのように話したのでナタナエルの心が動いたのではないかと推測しています。ナタナエルはいちじくの木の下でこんな祈りを神に捧げていたのかも知れません…「神様、いつになったら約束の救い主を私たちのところに遣わして下さるのでしょうか。今なら今、もっと後なら後とどうか教えて下さい…」と。するとそのすぐ後で彼はフィリポに出会い、ドキッとする一方で聖書の預言とつじつまが合わないフィリポの話しを半信半疑に思いながらも少しばかり期待してついて行ったのかも知れません。そこへすべてを見通していたかのような主イエスの言葉と人柄に彼は真実を確信できたのではないかと考えられます。
いずれにしても、このイエスの言葉でナタナエルは十分だったことがわかります。49節の「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」とは他の弟子たちが言えなかったかなり深い信仰告白であったと言えます。
1:50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
>>>この表現もなかなかわかりづらいのではないでしょうか。これは旧約聖書の創世記でアブラハムの孫のヤコブが兄のエサウに命を狙われるはめになって母の故郷に逃れる途中、ベテルという場所で石を枕に寝た時に見た夢に似ています。その時ヤコブは「ここは天の門だ」と表現しています。主イエスはまさに「天の門」という点でその通りなのかもしれません。そして、弟子たちはその後主イエスを通してなされていく数えきれないほどの神の御業を体験していくことになるのですから、主イエスの言われたことは実現していくことになります。しかも、このところで「はっきり、言っておく」というイエスの言葉は「アーメン、アーメン私は言う」と言語で書かれている部分です。特に重要なことを主イエスが語る時に登場する主イエスの言葉の特徴です。ある意味、主イエスはナタナエルの素直な信仰に驚き、また評価したのかも知れません。その上でもっと確信が持てる数々の事柄が先に待っていることを彼に伝えたのではないでしょうか。
◆ナタナエル=バルトロマイではないかという説
実はナタナエルはヨハネ福音書以外では登場しません。一方ヨハネ福音書でナタナエルは復活後の主イエスに出会った弟子たち(ヨハネ21章)の中にも名前を見ることができます。従って、次のような理解が有力となっています。他の福音書ではフィリポと名前がセットで登場する十二弟子の1人バルトロマイがナタナエルなのではないかという理解です。バルトロマイという名はトロマイという人の子(バル)という父の名前が明確にされた呼び名で当時の人はバルイエスとか、バルナバとか、バルトロマイというように自分の名前以外にもナタナエルのようにユダヤ人名やフィリポのようにギリシャ人名を複数持っていたようです。そう考えると、ナタナエルも主イエスの伝道の最初期に弟子に加わった十二弟子の1人だと考えることができるのです。
>>>これまでのところでこのようにして主イエスが十二弟子の中の5人とどのように出会ったかがヨハネによって語られたと理解することができます。アンデレ、ヨハネ、ペテロ、フィリポ、そしてナタナエルです。それぞれ一癖も二癖もある人たちだったことでしょう。少なくともアンデレとヨハネは師のバプテスマのヨハネから主イエスを紹介された時点はすぐに主イエスを文字通りには信じることはできませんでした。ナタナエルもそうです。しかし、5人に共通していることは主イエスに彼らは直接出会ってから主イエスを信じるようになりました。大切なのは一人一人、主イエスと出会うことだと分かります。どんなに私たちが人を教会に誘い、伝道したとしても、そこに主イエスとの個人的な出会いがなければ本当のクリスチャンとしての歩みは始まらないということでしょうか。逆にそこから始まるのがキリスト教の伝道なのではないでしょうか。このクリスマス、このような視点を大切にしながら主イエスとの出会いを大切な人々に導くことを目指して参りましょう。また、弟子たちは決して議論して主イエスを兄弟や友人たちに紹介しませんでした。ただその時点で自分が確信した主イエスを表現する言葉で兄弟や友人を主イエスへとつなげたのでした。このクリスマス、一人でも多くの方に主イエスとの出会いがありますようにお祈り致します。