ヨハネによる福音書1章29-42節「神の小羊」
総合テーマ 神の子となるための条件
黙想のポイント
その1 バプテスマのヨハネからイエスのことを「見よ…神の小羊」だと聞いた時から、どのようにアンデレたちの主イエスに対する見方が変化していくのか黙想しましょう。
その2 この箇所にはイエスとの出会いが信仰へと変化していく過程が表現されています。あなたの場合はどうでしたか?
◆神の小羊
1:29 <その翌日>、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
>>>「その翌日」という言葉を用いて、特別な出来事が連続して起きて行ったという表現方法を取る著者ヨハネ。35節でも同じ表現になっていて、ヨハネ福音書の特徴の一つとなっています。毎日が新鮮な驚きに満ちていたことが伺えます。
>>>主イエスについての重要な表現が登場しています。まず36節でも同じ表現が使われていますが「見よ」と主イエスを指し示す表現に注目しましょう。この呼びかけは私たちにも向けられていると考えられます。心の目でしっかりと主イエスが何者なのかを正しく見極めなさいとのヨハネの思いが表現されているようです。そして、「世の罪を取り除く神の小羊」という表現には、主イエスがやがてどのような最後を遂げて行かれるのかが明確にされています。罪を取り除くための犠牲の羊というのは殺されて祭壇で神に捧げられる存在です。主イエスの十字架による罪のあがないが明確に示されている預言の言葉と受け取ることができます。
1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
>>>ここでバプテスマのヨハネが何を言っているのかピンとこなったかもしれません。それでもヨハネの感動が伝わって来ます。主イエスを誇らしげに紹介しているバプテスマのヨハネの姿が思い浮かびます。自分はこの日のためにバプテスマを授け続けていたのだと!
1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
>>>ヨハネ福音書にはバプテスマのヨハネが主イエスにバプテスマを施す場面は省略され、語られていません。代わりに聖霊が主イエスの上に降ったのを見たことを報告し、聖霊が降った人物こそ人々に聖霊によってバプテスマを施すことになる救い主だということが予めバプテスマのヨハネに示されていたということが語られます。ヨハネが神の子と言った意味には「聖霊によるバプテスマを人々に施す救い主」という主イエスが復活された後で果たすもう一つの重要な役割も含まれていたことが分かります。ヨハネ福音書には、キリストが「信じる者の罪をあがなう救い主」となるテーマと、「聖霊によるバプテスマを授ける救い主」になるというキリスト教の最重要教理の二つが出だしで明確に語られています。十字架と復活の意義が語られているということです。
◆最初の弟子たち
1:35 <その翌日>、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
>>>この二人の内の一人とは40節で明らかになる通り、後に十二弟子となるアンデレだと分かります。もう一人は後に明確になっていく、十二弟子のひとりでこの福音書の著者ヨハネということになります。
1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
>>>以前からバプテスマのヨハネに聞かされていたからでしょう。彼らは主イエスに興味を持ち、ついて行ってみることにました。他にも大勢がバプテスマのヨハネのこの言葉を聞いていたことでしょう。主イエスについて他人からの情報を聞くという段階から、自分自身でもっと主イエスに興味を持ち、近づいて行くという段階にアンデレたちのように進む時、本当の主イエスの姿が見えて来るのを私たちも経験していくことができます。
1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
>>>この箇所には著者のヨハネがイエスと会話を取り交わした時の記憶が鮮明であり、感動に満ちていたことが伺えます。…後からついて来る彼らに気づいた主イエスは「何を求めているのか」声をかけます。すると彼らはどこに泊まっておられるのですか?と主イエスに興味があることを間接的に伝えます。また、この時「ラビ」とイエスのことを表現していることから、この段階では彼らにとって主イエスはそれなりに偉い教師の一人くらいに受け止めていることが分かります。しかし、この後で彼らと主イエスの関係は急速に深まっていくのが分かります。
それは宿に入った時刻(午後四時ごろ)までが明確に記録されていることからも分かります。主イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と彼らに語りました。彼らの同行を快く受け入れておられることが語られています。
私たちだったらどうでしょうか。初対面の人々から「どこに泊まられるのですか」なとど聞かれたら不審に思い、警戒もするはずです。しかし、主イエスはむしろこのように関心を持つ彼らを快く迎え入れています。そして、一緒に宿にも泊まるほどの進展を見せていくのです。ヨハネたちがどれほどこのことをその後得意げに他の人に話したことでしょうか。主イエスと一緒に同じ宿に宿泊できたのですから!
この時から主イエスとの真の出会いと新たな人生が始まって行くのです。これはすべての人にも当てはまるのではないでしょうか。主イエスと寝食を共にすることはバプテスマを受けてクリスチャンとして教会の兄弟姉妹たちと歩み始めることに通じる箇所であり、主イエスを遠目に傍観している人には体験できないレベルの主イエスとの親蜜な関係がここで語られているのです。
1:40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
>>>アンデレは今度はすぐに彼の兄に主イエスのことを伝えます。これが事実上最初のキリスト伝道ということになるのでしょうか。短期間ではありましたが、いつしかアンデレにとって主イエスは単なる優れた「ラビ」ではなく、「メシア=聖書に預言されている救い主」だという確信にまで変わっていることが分かります。油注がれた者とは「神から特別な使命を与えられた者」という意味ですが、同時に当時の人々にとっては「聖書に預言されている救世主」という意味を持った言葉だったと考えられます。
1:42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、「ケファ『岩』という意味」と呼ぶことにする」と言われた。
>>>アンデレのこの行動をアンデレ伝道と呼びます。上手に主イエスがどのような救い主なのかということは伝えられなくても、人々に主イエスのことを紹介し、教会に連れてくる人のことです。そうすることによって彼らに主イエスと出会うチャンスを提供するのです。クリスマスこそアンデレ伝道を共に積極的にしたい時期です。
こうして主イエスの元へと連れて来られたアンデレの兄弟シモンでした。やがて教会の初代リーダーとなっていくペテロと主イエスとの出会いの始まりです。生粋のユダヤ人であり、漁師であったシモンにはギリシャ語名の名前など必要なかったはずです。しかし、彼が後に教会の基礎(岩で出来たしっかりとした土台)を築いていく役割が与えられることと、国をまたいでギリシャ語圏の世界にまで伝道の範囲を広げていく役割をやがて担って行くことがここで示唆されていると受け取ることができます。
主イエスと真の出会いを果たしていく者たちの人生の大きな変化の始まりが生き生きと語られています。