エレミヤ書31章27~34節「建て、また植えようと見張る主」
31:27 見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。
31:28かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。
>>バビロンのエルサレム侵入(ダニエル1:1~3参照)によって比較的身分の高い人々が捕囚の民として連れ去られ、その際、羊や山羊などの家畜も戦いの犠牲となりました。
これまでエレミヤは、預言者として神の言葉を語るとともに、ヨシヤ王による宗教改革運動を支持し、人々が純粋に主なる神のみを心から礼拝する民となるよう願っていたことでしょう。しかし、人々はこの改革に真剣に取り組んでいないことがあきらかとなります。
(エレミヤ5:4~5、6:13~14、8:10)
苦悩するエレミヤに、神さまの言葉が臨みます。(27節)
23節に「見張っている」という言葉は「見守る」と読み替えることもできます。エレミヤがかつて召命をうけた時の神さまの言葉「抜き、壊し、滅ぼし、建て、植える」が重なります。
31:29その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」と。
31:30人は自分の罪ゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。
>>ユダの人々は。自分たちが犯した神さまへの背信行為を棚に上げて、バビロン捕囚の悲劇の理由を先祖の罪に求めました。神さまの言葉「彼らを建て、また植えようと・・」は、彼らにとって慰めであり、希望の光であると同時に、「自分が責任を負う」という教えの大切な根拠となったことでしょう。
31:31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日がくる、と主は言われる。
31:32この契約はかつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトから導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
>>「新しい契約」・・エレミヤ書で最も重要な預言のひとつとも言われています。神さまと人々との間に「新しい契約を結ぶ日がくる」というのです。その背景には、出エジプト記で語られた、モーセを通して与えられたシナイ契約があります。シナイ契約では、神の民は従順に神の契約の律法に従うことが求められます。これに照らされれば、不従順な神の民に、もはや救いは絶望的といわざるを得なかったのです。しかし、「新しい契約」は不従順な民であろうとも、その心に刻まれるので消し去ることはできません。神さまご自身が、恵みによって神の民一人ひとりの内側に変化を起こし、神の律法に従う意志を与えるのです。この新しい契約により、人々は真に新しくされるのです。この「新しい契約」は、イエス・キリストにおいて成就したとされる「新約」の根拠となるものです。(ヘブライ8:6~12参照)。イエスさまは最後の晩餐の席で、十字架の死を意識しながら、「わたしの血による新しい契約」(ルカ22:20)と語り、そのはじまりを弟子たちに告げました。旧約の時代から約束されていた、神の御子によってなされる「新しい契約」によって、現代の私たちも救われているということができるでしょう。
31:34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
>>「新しい契約」の下では一人ひとりが強制されてではなく、自発的に喜んで神様を愛します。互いに教え合う必要もなく、すべての人が直接神様を信じるのです。「主を知れ」とは「主を信じる」という意味も含まれます。この契約はイエスラエルの民の救いと解放に限定されません。神さまの律法を心に記されることを願うすべての人と神さまとの間に成就するということが言えます。ここにイエス・キリストによる「新約」の光が差し込まれているのではないでしょうか。