ルカによる福音書6章17~26節 「幸いとわざわい」
総合テーマ 実を結ぶ信仰
・今月のみことばの学びの視点…その1
悔い改めにふさわしい実を結ぶとは、どういう実を結ぶことでしょうか。
・今月のみことばの学びの視点…その2
それにはどのような信仰が必要でしょうか。
◆黙想のポイント
1.主イエスが癒しやメッセージの合間に祈りの時を重んじていたことを確認しましょう。また重要な選択をする前に主イエスは十分な祈りの時を持っていることを確認し、その意義を黙想しましょう。
2.ルカがマタイ福音書と対照的に掲げる4つの幸いと4つの不幸にはどんなメッセージが込められているのでしょうか。また、21節と25節で語られる第2と第3の幸いと不幸のところにはなぜ<今>という現在形が登場するのか黙想しましょう。
◆おびただしい病人をいやす
6:17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
6:18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
6:19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
>>>ルカ福音書は主イエスの癒しの話しの合間、合間に人里離れたところ、つまり祈りに専念できる環境へと退いて度々祈っていたことを強調しています。次の箇所を参照下さい。特に今回の箇所の直前には徹夜祈祷をして十二弟子を選任しているのも特徴的です。
4:42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。⇒使命の再確認、直前まで癒し
5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。⇒直前まで癒し
6:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。⇒十二弟子選任
また、19節には人々を癒して行かれた時、「イエスから力が出て」という表現があります。主の癒しの御業にはそれ相応の霊的な力が必要だったことが分かります。主イエスが祈りを定期的に必要としていた理由のひとつではないでしょうか。私たちも忙しい時や重要な決断を迫られる時こそ、普段以上に祈ることの必要が示されます。
◆幸いと不幸
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、☆幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、★不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
6:21a <今>飢えている人々は、☆幸いである、/あなたがたは満たされる。
6:25a <今>満腹している人々、あなたがたは、★不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。
6:21b<今>泣いている人々は、☆幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
6:25b<今>笑っている人々は、★不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは☆幸いである。
6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
6:26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは★不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
>>>マタイ福音書では山上での7つの幸いのメッセージが報告されています。これに対してルカではいくつかの点が対照的に報告されています。たとえば、下山した後の平地でのメッセージだったこと。また4つの幸いとそれに対応する4つの不幸について語っていることなどです。ルカが掲げる4つの幸いと不幸について見ていきましょう。
① まずは第1の幸いについてですが、貧しいという言葉の反対語は富むようになるという言葉ではないということです。そもそも貧しい人とはどんな人を指すのでしょうか。それは本来必要なものが欠乏している状態の人を言うのではないでしょうか。主イエスは本来もっとも人間に欠乏しているものがなんであるかをこのことで明確にしています。それは、神の国だということです。神の国こそ神が与えたいと望んでいることであり、人間のもっとも欠乏しているものなのです。これに対して今、富んでいる者はすでに慰められた状態にいるので、なかなか自分のもっとも必要としているものが欠乏していることを悟ることが難しいため、最も価値ある富である神の国を手に入れることが難しい環境にいることを示唆していると言えるのではないでしょうか。
② 第2、第3の幸いには<今>という言葉が冒頭についていることが特徴的です。文字通り、今だとすると、それは主イエスの御前で御言葉を聞く機会が与えられているその現場にいる人々を指すことになります。これを霊的な次元での話しとして受け止める時、より内容が理解できるようになるのではないでしょうか。つまり、今、神の言葉と真理に飢え渇いている者は主イエスの教えによって満たされることができ、その逆の状態ならば満たされないままになると。また第3の今、泣いている者とは自分の罪深さを自覚し、神の御前に悔い改める心のある者を指し、そのような者こそ主イエスによって笑う者と変えられていくということ。それに対し、主イエスの御前にいながら主イエスから真の助けと救いをいただく必要があることに気付かない者は後でそのことを後悔するようになるとのメッセージとして受け止めることができます。
③ 第4の幸いとは、主イエスに従うために犠牲を払う信仰がある人のことを指し、自分の十字架を担う人のことと考えてみてはどうでしょうか。すると、そのような者の払う犠牲は決して無駄にはならず、むしろ大きな報いをやがて御国においていただける幸いに与ると。それに対して人にほめられることが多い人は、自己満足に陥ったり、慢心してしまい、神のために生きるよりも人の評価を気にし過ぎるあまり、一番肝心な神の使命に生きることを疎かにしてしまい、天に宝を積むことを疎かにしてしまった聖書に見る堕落した預言者たちと同じ結果になることを警告していると解釈することもできます。ここに登場する神から遣わされた預言者たちを罵り、迫害する人々にも注目しましょう。彼らはまた、時が違えば預言者たちを持ち上げ、おだてた人々であったということです。預言者たちにこのような態度を取る者たちとは神を見ず、人間ばかり見ている人たちでもあります。本当に幸いな人というのは人ではなく、神を。また人々から称賛されるような功績を残すことではなく、天に宝を積むことであると主イエスは教えておられます。
この主イエスの御言葉を聞いた私たちは<今>どのように応答して生きることができるでしょうか。