ルカによる福音書5章1~11節 「お言葉ですから」
総合テーマ 実を結ぶ信仰
・今月のみことばの学びの視点…その1
悔い改めにふさわしい実を結ぶとは、どういう実を結ぶことでしょうか。
・今月のみことばの学びの視点…その2
それにはどのような信仰が必要でしょうか。
◆黙想のポイント
1.ペテロたちが献身へと導かれていくプロセスを黙想する。
2.この箇所に語られるどんな信仰が主の御業を結ばせる結果へとつながっているのでしょうか。
はじめに…ペテロたちとゼベダイの子らが夜通し漁をしたが取れず、主イエスの指示に従ったところ舟一杯になるほどの大漁を体験するという話しはルカ福音書とヨハネ福音書とに登場する。ただし、ルカではペテロたちが主イエスに従っていく召命物語の一部としてであり、ヨハネでは復活後の主イエスとの再会の場面での再召命物語の一部として登場します。今回の箇所には主イエスの具体的な群衆への話しの内容は報告されません。テーマは主イエスとペテロたちとの会話の中から見出す必要があるようです。
◆漁師を弟子にする
5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
>>ゲネサレト湖はガリラヤ湖のことです。群衆が岸部に主イエスに従って大勢やってきます。
5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
>>二そうの舟とはペテロの舟と10節から分かるようにゼベダイの子ヤコブとヨハネの乗っていた舟です。彼らは後の説明で分かるように一晩中漁をしたが魚は取れず、岸に上がって次の日の漁に備えているところでした。
5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
>>この箇所の直前に安息日の礼拝後にペテロの姑の熱病をイエスが癒す話しがありました。その後の話しなのでペテロはなおさら断れなかったことでしょう。それにしても、特別に主イエスのまぢかで話しを聞けたペテロたちがうらやましい限りです。
5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
>>すでに網も洗った後、しかも夜通し漁をしたにも関わらず何も取れなかったペテロたちでした。漁の専門家ですらあきらめていた日に再び網を降ろせと言われてもなかなかその気になれなくてもおかしくはない場面です。しかし、ペテロは主イエスの言葉に従い、再度網を湖に入れることにしました。この選択が良かったのです。個人的な専門知識やプライドそして常識にしがみついていては決して体験できないことをペテロたちは体験することになります。
5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
>>奇跡は起きました。普段から体験していた漁とは違い、漁師の家に生まれて以来はじめての体験となるような、舟が沈みそうになるほどの大漁を彼らは経験しました。
5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
5:10 (前半)シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。
>>常識を超えた、予想すらできない結果にペテロたちは主イエスの中に不動の神の子としての権威を垣間見たのかも知れません。それは彼らに自分たちの罪深ささえ自覚させるものでした。主イエスと共にいることも、主イエスの頼みごとを実行に移させていただくことももったいないことのように思える主イエスの存在感はいかほどのものだったのでしょうか。
5:10 (後半)すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
>>主イエスはさらに思いがけないことを彼らに語られました。今後あなたは人間をとる漁師になると…。人生にはどんなに努力しても努力の甲斐なくことが思うように進まない時があります。そのような時はだれにでも訪れます。そのような時にこそ、今回の箇所を励みにしたいと思わされます。なぜならこのような時の後に主の言葉の確かさを実感し、思いもよらない主の御業を体験し、主イエスと関わりのある人生を歩ませていただいていることを心から畏れかしこみ、感謝し、主イエスの示して下さる今までとは違う新たな可能性さえ見出すことができる前ぶれになるかもしれないからです。
それを可能にしたものは今回の箇所ではなんだった言えるのでしょうか。まず3節でペテロがしたように、主イエスを自分の舟に同船していただき、落ち着いてしっかりと腰を降ろしていただいて、御言葉を語っていただく場所を提供すること。言い換えると、それはあなたの人生の拠り所であるような中心的な心の場所に主イエスをお迎えする心のゆとりを持つことです。そして、主イエスの福音をじっくりと聞くことができる心の場所を確保することです。
次に主イエスの言葉がどんなにこれまでの自分の常識や専門知識やプライドにそぐわないものであっても、主イエスが示される道に「お言葉ですから」という信頼の姿勢で実際に生きてみることです。これを信仰と表現することができるのではないでしょうか。信じてキリストの言葉を実行して結果を仰ぐこと。この信仰を持つ時、私たちはキリストの言葉の確かさを体験して行くことになります。それはしばしば私たちの予想を超える遙かに素晴らしい結果であったりします。そしてそのことを通して、私たちはさらにキリストに対する信仰と献身の思いを深められていくのです。あらゆる偏見から来る恐れを主イエスに委ね、主イエスに信仰という人生の舵を委ねる時、私たちは新たな次元での主イエスとの人生の航海を始めていくことができるのです。
5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
>>その時からペテロたちの人生は決定的に変わりました。これまで自分たちが頼りにしていた一切のもの「すべてを捨てて」主イエスに従う者に変えられていきました。そして、人間をとる漁師としての歩みを始めたのです。私たちにも開かれている道です。