ルカによる福音書4章31~44節 「叱るイエス」
総合テーマ 実を結ぶ信仰
・今月のみことばの学びの視点…その1
悔い改めにふさわしい実を結ぶとは、どういう実を結ぶことでしょうか。
・今月のみことばの学びの視点…その2
それにはどのような信仰が必要でしょうか。
◆黙想のポイント
1.主イエスが叱る姿が今回強調されています。叱っている対象は何でしょうか。
2.キリストの宣教姿勢の中に見る実を結ぶ信仰と模範を黙想してみましょう。
新年おめでとうございます。この聖書の学びにご参加下さり感謝申し上げます。
◆汚れた霊に取りつかれた男をいやす
4:31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
>>>安息日に御言葉を人々に積極的に語っていた主イエスの姿が伺えます。
4:32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
>>>主イエスの言葉の特徴は神から来る権威を感じさせたことです。主イエスの場合に権威とは、言うだけでなく、言ったことを実現させる力が伴っている権威だと言えます。それが主イエスの言葉です。
4:33 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
>>>これは礼拝中に起きたことです。とんでもない妨害行為です。
4:34 「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
>>>主イエスは悪霊が好き勝手に振る舞うことを許されません。これよりも悪霊にとって嫌なものはありません。悪霊は本音を言っています。「かまわないでくれ」関わり合いたくないと。また彼らは自分たちがやがて滅ぼされることを知っています。そのため恨みを込めて「我々を滅ぼしに来たのか」と反撃の言葉を投げつけ、その上主イエスが「神の聖者」とか41節「神の子だ」ということを必要以上にわめいて、人々に誤った救世主としての期待を主イエスに負わせようと安息日礼拝の邪魔をします。悪霊が礼拝内にも入り込めるほどの当時の礼拝の霊的質の低下が伺えます。
4:35 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
>>>主イエスはまさにそのような礼拝を一新するために権威を持って悪霊を叱って、退散させています。悪霊はだれにも危害を加えることなく、退散させられました。それが主イエスの権威ある言葉の力です。
4:36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」
>>>聖霊に満たされた主イエスの言葉によって本来あるべき神の国にふさわしい礼拝が取り戻されました。ローマ書14:17 「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」という聖句が思い出されます。
4:37 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
◆多くの病人をいやす
4:38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。
>>>本来、安息日に病人を癒すことは当時の誤った聖書解釈では禁じられていることでしたが、主イエスもまわりの人たちもそのような本来聖書に根拠のない慣習を無視しました。
4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
>>>またもや「叱る」という言葉が登場します。人を苦しめる根本的な原因に対して主イエスは断固とした態度で臨まれます。興味深い言葉です。権威と愛情のこもった言葉のように聞こえてきます。
4:40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
>>>普通、「本日の診療は終わりです」というような時間に人々は主イエスのもとへ次々に患者を連れてきました。それでも主イエスはそれを拒まずに精一杯癒すために労を惜しまなかったことが語られています。その治療の仕方は一斉にではなく、「一人一人に手を置く」という丁寧な対応であったことが詳細に報告されています。
4:41 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
>>>悪霊に苦しむ人も患者の中にはいました。悪霊は人々の弱さに呼び寄せられ、人が苦しむのを好むことは聖書が示す通りです。イエスに癒された者たちは病が癒され、苦しみから解放されるだけでなく、悪霊からも解放されます。そして、それ以上神を汚す言葉を言うことができないように悪霊の口も封じられました。悪霊たちのせめてもの抵抗は「お前は神の子だ」というような正しいことを語りつつ、主イエスに迷惑をかけることだけだったようです。
◆巡回して宣教する
4:42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。
>>>朝とありますが、マルコ福音書の並列箇所から推察すると、夜明け前の早朝だったようですが、主イエスは祈りを大切にするために人里離れた所へ出て行かれたと考えられます。群衆は癒しの力を持つイエスを見失うまいと探し回っていたことがわかります。しかし、イエスには祈りを通して自分が何を優先しなければならないかを明確に自覚しておられました。
4:43 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
>>>イエスのこの世における使命は人々を癒して回ることではなく、神の国の福音を告げ知らせることであることを明確に言い表しました。人々の病や長年の苦しみを癒すことよりも、神の国の福音を告げ知らせる方が優先順位が高いということはなかなか一般の人にはわかりにくいことかも知れません。しかし、それこそが私たちが気づかなければならない今日にも宛てはまる最優先課題なのです。主イエスが遣わされた目的は一時的な肉体の癒しではなく、人間の苦しみの根源を解決することにあったからです。主イエス・キリストをあらゆる罪とその呪いから解放する救い主だと信じて、心に迎え入れる信仰を持つに至った者たちだけがその事実を実際に体験できるのです。それが神が定めた救われる方法で、どんな人であっても受け取ることができる最も平等な方法だと言えないでしょうか。
4:44 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。
>>>主イエスが祈りによって示された神の基準に従って引き続き使命を全うして行かれたことが語られています。主イエスのものごとを常に神の基準で考え、言葉と行動で表し、妥協せずにひとつひとつの出会いを大切にし、全力で人々の苦しみと向き合われた姿が印象に残る聖書箇所です。