ルカによる福音書1章5~25 「エリサベトへの告知」
総合テーマ キリストの誕生を喜んだ人々
・今月のみことばの学びの視点…その1 なぜ、彼らが選ばれたのでしょうか。神が選ばれる人材とは…。
・今月のみことばの学びの視点…その2 喜んだ後で彼らが取った行動とはどのようなものだったでしょうか。
◆黙想のポイント
1.今回の箇所の理解を深めるには追加参照箇所として1章後半の57節~66節を黙想下さい。エリサベトは夫ザカリアに告げられた約束をどのように受け止めたでしょうか。
【新共同訳】
ルカ
1:5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。
1:6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。
1:7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
1:8 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。
1:10 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。
1:11 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。
1:12 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。
1:13 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
1:15 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、
1:16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。
1:17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
1:18 そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
1:19 天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。
1:20 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
1:21 民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。
1:22 ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。
1:23 やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。
1:24 その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。
1:25 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」
★追加参照箇所
1:57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
1:58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
1:59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
1:60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
1:61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、
1:62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
1:63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
1:64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。
1:65 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。
1:66 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
今回の話しはバプテスマのヨハネの誕生にまつわるエピソードですが、正確にはバプテスマのヨハネの両親にまつわる話です。その両親とはどのような両親、そして家柄だったのでしょうか。5節によると、まず父ザカリアはアビヤの組みの祭司とあります。これはイスラエル王国史上、最も建国に貢献したダビデ王の時代に遡り、その時代に祭司職を務める24組みの中の一つにアビヤの組みがありました。ザカリアはその由緒正しいアビヤの組みの祭司(24組の第8番、歴上24章)の子孫だということになります。母のエリサベトは初代の祭司長でモーセの兄アロンの子孫でした。つまり彼らは祭司の中の祭司の名家に生まれた者たちだったということになります。しかも6節で彼らが非の打ちどころのない生活まで送っていたことが語られていますので、どれだけ神の御前に忠実にこれまで歩んできたかがわかります。ところが7節にある通り、彼らの結婚生活には大きな影が伴っていました。そのことのために人生の喜びが半減してしまいかねない重大な問題でした。それは彼らに後継ぎとなる子が授からなかったという問題でした。特別な祭司の家系に生まれたために、なおさら祭司職を受け継ぐ子どもが二人には必要不可欠でした。しかし、その祈りはなかなか聞かれなかったのです。
私たちの人生にも同じようなことがあるかも知れません。長年真剣にある事柄を祈って来たにも関わらず、それがかなえられないことがあります。そのような時には今回の聖書箇所を通して励まされたいと思います。それがかなえられない理由として神にはさらに別の方法で私たちの祈りをかなえて下さろうとしているのか、あるいは神にはもっと別の時期にその祈りを実現するご計画があるということです。神に仕える者たちの忍耐強い祈りが問われますが、神は決して信仰者の祈りを忘れておられるのではないことが13節でも明らかになっています。すなわち13節「天使は言った。「恐れることはない。ザカリア。あなたの願いは聞き入れられた。…」と。神は決して祈りを聞き逃すお方ではありません。むしろ、私たちの祈りを用いて御業を実現していかれるお方です。期待して祈り続けましょう。
さて、ザカリアは神殿で祭司の職務を行っていた時、一生に一度か二度あるかどうかという大変名誉で責任ある役目を担うことになりました。それが、神殿の一番奥にある至聖所という場所で、十戒が入った契約の箱が安置されている場所に一人で香を焚きに行くという役目でした。彼がそこに入って行った時に、天使長の一人と言われている天使ガブリエルが現れ、彼ら夫婦に実の子が与えられることと、それが男の子であること、そしてその子に「ヨハネ」という名前を付けるようにみ告げを受けます。本来ならば、そこで長年の祈りがかなえられたことを素直に喜び、感謝をすべきところでしたが、ザカリアは天使に口約束を裏付ける証拠を求めてしまいます。それは天使長の一人を遣わしてまでザカリア夫婦に素晴らしい福音であり、子どもを与えるとの約束の言葉を受けた者の取るべき態度ではなく、むしろ神の約束を疑う軽率な行為でした。しかし、ガブリエルは怒ることをせず、たしなめつつザカリアに一つの約束のしるしとして約束が実現するまで何も話せなくなるようにされます。その後、ザカリアはどうしたでしょうか。務めを果たした後、彼はとても大切なことをしました。その答えは間接的に60節にあります。
その場面というのは、やがて彼らに実際に男の子が与えられた時、律法の掟に従って8日目に割礼を施し、子どもに名前を付けることになっていましたが、親戚たちも集まった中で通常親族の中の誰かの名まえを付けるのが習わしであったにも関わらず、60節でエリサベトは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と明言したことから分かります。つまり、ザカリアは戻ってから妻に神がどんな約束と指示を与えられたのか妻に漏らさず伝え、夫婦でそれを共有して待望の赤ん坊の誕生を待ち続けたということです。エリサベトも自分の夫の話しを信じ、それが実現した時、自分たちに与えられた神の使命の重大さに恐れおののきつつ、子の名まえはヨハネにしなければならないと親戚一同の前で語ったのではないでしょうか。そして、なおも理解できないでいる親戚に対してザカリアは書く板を持ってこさせてはっきりと「この子の名はヨハネ」と書いた瞬間にたちまち再び話せるようになって神を賛美し出したのです。
その後、彼らが御使いガブリエルの伝えたような人物に育つように力を合わせてヨハネを育てたことは歴史が証明しています。ガブリエルが引用した旧約聖書の最後の書であるマラキ書3章33~34節に示されているキリストが到来する前に先立って登場するエリヤになぞらえられた人物のように「父の心を子に、子たちの心を父」に向けさせる働きを大胆にしていくことになります。
私たちはザカリアやエリサベトほどには立派な家柄に生まれたのでも、また彼らほどには神に忠実に従って生きて来た者たちではないかも知れません。しかし、私たちは神の祈りの家である教会の一員に加えられた者として、共に神に与えられている子どもたちを使命感を持って育てていきたいと願わされます。共に神に授かっている子どもたちの霊的成長を祈りつつ、主のご用に喜んで献身する者に導いて参りましょう。私たちにはできないと思えることをマリヤは信じたからこそ、キリストを生み、育てることができたように私たちに必要なのは神の約束の言葉を信じる信仰と、共に約束を実現していく神の家族=教会の仲間なのではないでしょうか。主の再臨を待ち望む今だからこそ、よりいっそう心を合わせてアドベントを過ごしたいと思います。共に祈りましょう。