ルカによる福音書1章26~45 「マリアへの告知」
総合テーマ キリストの誕生を喜んだ人々
・今月のみことばの学びの視点…その1 なぜ、彼らが選ばれたのでしょうか。神が選ばれる人材とは…。
・今月のみことばの学びの視点…その2 喜んだ後で彼らが取った行動とはどのようなものだったでしょうか。
◆黙想のポイント
1.マリアとザカリアとの違いはどこにあるでしょうか。同じ信じがたいことをマリアはどう受け止めたでしょうか。そして、マリアが取った行動とはどのようなものだったのでしょうか。
【新共同訳】
ルカ
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
◆マリア、エリサベトを訪ねる
1:39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1:43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1:44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
参考)1:56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。
私たちは前回、バプテスマのヨハネの両親ザカリアとエリサベトの箇所から、ヨハネと両親が伝統的な祭司の家系の出であることを確認しました。特に母エリサベトは初代の大祭司アロンの子孫だということが分かりました。今回もこのことが関係しています。今回はイエス・キリストの両親の番ですが、父ヨセフの方はダビデ王の家系であることがわかります。そして、36節からエリサベトがマリアの親戚であることが語られていますので、マリアは同じくアロン家の流れを組む家系の出であることが分かります。このことは、イエスが王の家系と大祭司の家系の両方と関係ある家系に生まれたことを指し示します。そして、それはやがて永遠の大祭司にして、王の王であると証明されていく人類の救い主にふさわしいことなのかも知れません。
さて、今回は特にイエスの母マリアに焦点を当てて行きましょう。ザカリアに現れた半年後にガブリエルはマリアにも現れて再び子どもを神から授かることと名前をイエスとするよう告げます。マリアの驚きはいかほどだったでしょうか。いきなり「おめでとう」と言われても、しかもその内容があまりにも自分にふさわしくない内容だったのでどれだけ戸惑ったことでしょうか。自分が授かる子がダビデの王座に付き、永遠にヤコブの家(つまりイスラエル)を治めて支配し、しかも聖なる神の子と呼ばれると言われて、素直に喜べる人が果たしているでしょうか。しかし、37節で天使が語った通り「神にはできないことは何一つない」という言葉をマリアは自分のこととして受け入れることができました。そこに今回の大切な教えがあります。38節にある通り、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とマリアは応えます。
この言葉は私たちに示されている模範であると共に私たちにとって最も実行が現実的には困難な言葉なのではないでしょうか。私たちのできる範囲のことが告げられたならばいいのですが、聖書の教えの中には敵を愛することや、自分の十字架を負ってキリストに従うことや、迫害をも覚悟しなければならないことや、聖なる者とならなければならないことや、自分の家族すら犠牲にしてでもキリストを優先すべき時があること等の教えが多数あります。このようなことまで自分の身にお言葉通りなりますようにとは簡単には言えないどころか、かなり難しいのではないでしょうか。だからこそ、神は主イエス・キリストを遣わして下さり、私たちが服従を拒み続けるあらゆる領域の罪をご自分に引き受け、避けて通りたいと真剣に思ったほどの十字架の杯を飲み干して下さったのです。従って、私たちは必ずしもマリアのように38節の言葉を口にすることができるような強く素直な信仰はないかも知れません。しかし、私たちがキリストを救い主と信じて心にお迎えした時から、キリストが遣わされる聖霊の助けによって私たち自身にはできないことも、次第にできるようになって行くのも事実です。
今回の箇所で特に理解して置きたいことは、マリアは決して一人で告げられた使命を担って行ったのではありません。自分には到底できないと思うような使命でしたが、ガブリエルはあなたではなく、神にはどんなことでもできると言われたのです。しかも、28節にあるように主が共におられると約束して下さっているのです。そして、大抵の場合には主はご自身だけでなく、私たちが担うあらゆる使命や試練を共に励まし合い、助け合える仲間を神は備えて下さいます。今回の箇所ではマリアには親戚エリサベトがいました。マリアはすぐさまエリサベトのところを訪ねます。二人は共通の使命を持っていました。神から特別な子どもを授かっており、母としてその子を育てていく使命が与えられていました。マリアはエリサベトとその後3カ月一緒に滞在したとあります。その間互いに祈り、励まし合いながらこれからどう子どもを育てていけばいいのかも相談し合ったのかも知れません。またもう一人、夫ヨセフもマリアの善き理解者であり、サポーターであったに違いありません。ヨセフは夢に現れた主の御使いの言葉を信じて結婚前に妊娠したマリアを妻としてすぐに迎え入れています。なかなかできることではありません。神様はこのように総合的に私たちが互いに協力し、励まし、助け合いながら神から与えられる使命を果たして行くことができるようにして下さいます。
今日の私たちには教会があります。マリアとエリサベトが共に神の子どもたちを生み、育てたように、私たちもキリストが再臨されるその時まで共にキリストに先立つバプテスマのヨハネのような者たちとして、キリストに人々を導く者とされていきましょう。これは到底自分一人には担えない使命かも知れません。しかし、私たちに求められているのは能力ではなく、主に信頼し、忠実に従おうとする信仰、そして主が与えて下さっている信仰の仲間です。私たちはイエス・キリストを救い主として信じ受け入れた時から、キリストのからだの一員とされたのです。共にクリスマスのこの時期を大切にしながら、一人でも多くの方の中にも主イエス・キリストが来て下さるように祈りつつ、力を合わせていきましょう。