イザヤ書9章1~6「平和のみどりごを待つ」
総合テーマ 神のみ言葉の確かさと力
・今月のみことばの学びの視点…その1 神が示される救い主とは
・今月のみことばの学びの視点…その2 神が望んでおられる救いとは
◆黙想のポイント
1. いよいよイザヤ書の最後の学びとなりました。最後はキリストについての預言の箇所です。
次週はアドベントです。救い主誕生の預言の箇所を黙想しましょう。
【口語訳】
注1)9:1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
【新共同訳】
注2)8:23 先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
・今回の箇所の理解を深めていくためには新共同訳聖書で前の章の23節(注2)にある言葉をむしろ口語訳のように9章1節(注1)とした方がより分かりやすいように思います。
ここにあるゼブルンとナフタリという地名はイスラエルの十二部族の二つが割り当てられた土地のことであり、ガリヤラ湖(当時はキネレテ湖)の左側の土地のことであり、ガリヤラ地方を後に指すようになった場所のことです。ここにナザレという主イエスが育った町もありました。イザヤが預言した時代に、北王国イスラエルに属するこの地域はいち早くアッシリヤ帝国によって滅ぼされ、多くの人が連れ去られ、異国民がこの地に住むようになりました。それで異邦人のガリヤラと呼ばれるようになったのです。このガリラヤ地方とはキネレテ湖から地中海沿岸までを含めた地域を指しました。従ってこの箇所で「後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた…」とあるのはつまりガリヤラ地方のことを指しているのです。
9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
今回の預言はこのガリラヤ地方が大きな祝福を受けることが預言されている箇所です。その祝福とは救い主がこの地方に関わって下さるという預言に他なりません。ナザレという地名は出て来ませんが、キリストはガリラヤ地方と深い関わりを持つことがここにはっきりと預言されているのです。
9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
刈り入れは多くの人が共同で行い、大勢で収穫を喜び合いました。戦利品についての考え方も基本的に一緒です。大勢が共に喜びに包まれる祝福が訪れることが預言されています。イエス・キリストの御言葉による祝福や5つのパンと二匹の魚で起こされたかずかずの奇跡が思い浮かびます
9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
この表現は民が奴隷としてアッシリヤに連れて行かれた時のことを連想させます。そのような試練から民が解放されることが預言されています。事実、イエスの時代には民は再びこの地域にローマ帝国の植民地としてではありましたが、住むことができるようになっていました。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
戦争がなくなり、軍服などが必要なくなることが表現されています。
9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。
今回の箇所で最も注目したい箇所です。ここにキリスト誕生の預言がなされていますが、問題なのはキリストを指し示す名の中に「力ある神」と「永遠の父」という神にしか使わない名が「驚くべき指導者」と「平和の君」という名の間に登場することです。人間の男の子として生まれてくるはずのキリストを指し示す名の中に神を指し示す言葉が入っているのをイザヤも当時この預言を聞いた人も、イエスの時代のユダヤ人たちも理解することができなかったのではないでしょうか。また、人間が神であるなどという考えはユダヤ人たちにとって長年タブーとされて来た考え方です。この預言は多くのユダヤ人にとってつまずきとなったことでしょう。このことを理解できるのは主イエス・キリストこそまことに人でありまことに神であったという信仰理解をするクリスチャンにこそ理解できるものだと言えます。
9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
キリストはダビデの家系の中に置かれることと、キリストが登場して後は平和と正義と恵の業が絶えないものとして表現されています。ただし、これは世界中がそのようになることを明確に預言しているものではありません。本当の完全な平和が実現するのはイエス・キリストの再臨後に神が約束されている新しい天と新しい地とが完成するのを待たなければなりません。しかし、確かにこの世がどんなに罪に溢れ、戦争が絶えないとしても、キリストのからだである教会の働きによって福音が世界中に伝えられ、至る所で正義と恵の業が展開して来たのは確かなのではないでしょうか。
私がもう一つ注目したいのは最後の「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」とある預言です。ここには神の固い決意と断固としてこのことは実現してみせるという神の意志が伺えます。この約束に基づいて主なる神様は私たちには想像できないほどの忍耐を持って、一人でも多くの人を救いと御国に入れて下さろうと今でも十字架を担いながら御言葉の通りに実行し続けて下さっています。この言葉の背後にある神の大いなる忍耐を忘れずに待降節を迎えたいと思います。また、一人でも多くの人に福音を分かち合うと共に、できるだけ多くの人と至るところで正義と恵の業を分かち合いたいと願わされます。
世の終わりまで私たちはクリスチャンとしてできることを大胆に実践しながらキリストの再臨を待望しましょう。