イザヤ書56章1~8「集める神さま」
総合テーマ 神のみ言葉の確かさと力
・今月のみことばの学びの視点…その1 神が示される救い主とは
・今月のみことばの学びの視点…その2 神が望んでおられる救いとは
◆黙想のポイント
1.今回の箇所はだれが救いの対象になっているのか黙想しましょう。
◆聖書箇所…
56:1 主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
56:2 いかに幸いなことか、このように行う人/それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人/悪事に手をつけないように自戒する人は。
56:3 主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
56:4 なぜなら、主はこう言われる/宦官が、わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るなら
56:5 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。
56:6 また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら
56:7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
56:8 追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。
イザヤを通して聖書の神は繰り返し何を明らかにしておられるのでしょうか。それは、神の救いの対象はユダヤ人たちだけではないということです。そして、今回の箇所では「異邦人」と「宦官」で象徴される人々への神の救いの情熱が語られています。それらの人々とは今日で言うところのどういう人々を指すのでしょうか。イザヤを通して語る神の福音に耳を傾けましょう。
旧約聖書は一見聖書の神がユダヤ人を依怙贔屓しており、ユダヤ人ほどにはユダヤ人以外の人、つまり異邦人を愛していないかのように受け取られることがありますが、旧約聖書を注意深く読むならば、ユダヤ人が神に選ばれ、用いられたのは、ユダヤ人が他の民族よりも優れているとか、特別だからではなく、ただ世界中の人に神の救いをもたらして行くのに一番都合が良いと神が判断したからに過ぎないことが今回の箇所を含め、随所で語られています。神がユダヤ民族をモーセによってエジプトにおける奴隷状態から解放し、カナンの地に連れ戻す際にも、彼らにはっきりと語り聞かせた神の言葉は注目に値するでしょう。
申命記9章4節にはこうあります。…聖書を開いて一緒に読みましょう。…9章4節(新共295p)
「あなたの神、主があなたの前から彼ら(つまりカナンに住む人々)を追い出されるとき、あなたは、「わたし(たちユダヤ民族)が正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民(カナン人)が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。」
ここで語られていることは、神はもはや見過ごしにはできなくなったカナン人たちの悪が世界にこれ以上悪影響を及ぼさないために、彼らよりも遥かに弱小であったユダヤ民族を用いたというのがことの真相だと分かります。
一方で、聖書の神はユダヤ人たちの専属の神だと誤解している異邦人に向かって、神はイザヤを通して聖書の神がユダヤ人たちだけの神ではなく、すべて聖書の神に信仰を置く人々の神だということを今回の箇所で明確にしているのです。真の神がどの神であるかを知らず、適当にしか神を礼拝してこなかった者たちであっても、聖書の神こそ世界中の人々を救うことのできる真実なる神であることを知り、聖書の神を礼拝し、その神の救いを信じて生きる異邦人を神は喜んで神の礼拝と祝福の中に入れて下さるとイザヤを通して神は語っておられます。
また今回の箇所には異邦人の他に宦官という人が登場します。宦官とはどのような人たちを象徴しているのでしょうか。宦官とは簡単に言えば現代社会ではもはや実在しなくなった王様の身の回りの世話をする男性たちのことで、宦官は手術を施されて自分の子どもを授かることができない体にされた人々でした。そうして王様にお仕えすることに専念させられた人々でしたから、後継ぎや子孫を残すことが叶いませんでした。
3節で「宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」このように表現されている箇所の枯れ木とは、子孫を残す希望がない人のことを指します。しかし、このような人も希望を失ってはならないと聖書の神は励まします。本当のつながりとは神の祈りの家、つまり教会と天国に名を刻むことにあると宣言されます。
イザヤ56章5節の言葉を一緒に読みましょう。…56章5節(新共1154p)
「わたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」
…とある通りです。
これら異邦人、そして宦官が象徴している人々とは現代ではどういう悩みと絶望を持った人々のことを言うのでしょうか。異邦人とは何らかの理由で神の救いは自分にはふさわしくないと思い込んでいる人のことです。そして宦官とはこれからの将来の自分に自信が持てず、希望を見出すことができないでいる人のことではないでしょうか。どちらのタイプの人であっても、神はあなたを救うことができる神であるとイザヤは宣言しているのです。聖書の救いの神こそ、あなたの神だと宣言しているのです。
この聖書の神の救いと祝福を受けるには異邦人も宦官もどうすればいいのかということを繰り返し2節、4節と6節で神は説明しています。それは毎週の礼拝を大切にし、神の教えを心をこめて実践して生きていくことだと明らかにして下さっています。
また、7節では主イエスも引用された「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という言葉が登場する箇所ですが、神は喜んで私たちを神の祈りの家に招いて下さろうとしていること。そしてその祈りの家の喜びの祝いに共に参列することができるようにして下さるとの福音が語られているのです。そして、その肝心なところとは「彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら」そのように許して下さるということです。焼き尽くす献げ物とは自分の人生を神に委ねる信仰のことを指します。そしていけにえとは、主イエス・キリストがあなたの罪のために十字架にかかって死んで下さったことを信じる祈りを捧げることです。これこそキリスト教の中心主題でもあります。イザヤ書がイザヤ福音書と呼ぶにふさわしい理由がここにもあります。
最後の8節も希望に満ちています。神様はまだ祈りの家にもっと多くの人を招き入れたいと望んでおられると言うことです。「既に集められた者に、更に加えて集めよう」とその意志を表明して下さっています。今ならまだ神の救いに入れていただけるチャンスがあるということです。もし、あなたがまだその一員に加わっておられないのでしたら、この機会にバプテスマを受け、神の祈りの家の一員としてあなたの名を教会と天国に刻んでいただき、神からいただくことのできる真の希望に溢れる人生にお入り下さい。共に祈りましょう。
祈り…父なる神様、あなたが遥か昔から私たちのことを念頭に置いて下さり、イザヤを通して私たちの救いを預言して下さっていたことを知り、改めて感謝致します。どうか、あなたの招きに応え、あなたの祈りの家の一員にふさわしい者にして下さいますようにお願い致します。あなたの僕であり、私たちのすべての罪と弱さを担って十字架にかかって下さった救い主イエス・キリストに感謝します。どうか、私たちもあなたの僕として、あなたの祈りの家で毎週の礼拝を大切にし、あなたの教えに忠実に従っていくことができますように、今週もお導き下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン