マルコによる福音書2:23−28
本日の箇所は、安息日に弟子たちが麦の穂を摘んでいるという場面から始まる。それを見てファリサイ派の人々は批判した。彼らはなぜそのような行為を咎めたのであろうか。「他人の畑だったから」などの理由からであろうか。
申命記には次のような記載がある。「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」(申命記23:25−26)。「その場で食べられるだけの分は取ってもよいが持ち帰ってはならない」という、人道的な戒めであると言える。また、ミレーの有名な絵画「落ち穂拾い」や、ルツ記のエピソードから分かるように、律法では「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい」(レビ記23:22)という規定もある。
それゆえ、弟子たちのこの行為は、決して主の戒めに違反する行為ではなかった。弟子たちは麦の穂を鎌で刈り取って大量に持ち帰ったわけでもない。では、なぜファリサイ派の人々は彼らを咎めたのであろうか。ファリサイ派の人々は、「とにかく律法をしっかり守ること」が神を喜ばせることであると信じていた。律法には「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト記20:8−10)という戒めがあった。「聖別する」とは、「神を礼拝する大事な日として、他の日と分ける」という意味である。この戒めは創造物語に由来する(cf. 創世記2:1−3)。人は「神の目に良しとされたもの」(cf. 創世記1:31)として神のなされる全てのわざを喜び、また自分自身が神によって生かされ愛されていることを喜び、神を礼拝する日を大切にするよう命じられている。どれほどこの世の事柄に追われる日々を送っていても「自分が思い煩わないと生きられないのではなく、我々は神に生かされているのであり、我々の生も死もすべて神の御手の中にあるのだ」という事実を想起し、神に委ねて礼拝する日が「安息日」である。ファリサイ派の人々はこの戒めを大切にしたいと願い、人々になんとか「安息日」を守らせようとして様々な規定を設けた。彼らは「安息日」の「精神」よりも「戒め」の方に心を傾けた。それゆえ、「安息日に麦の穂を摘む」という弟子たちの行為を「安息日に禁じられている労働をなしている」と解釈し、咎めたのである。
ファリサイ派の人々は主イエスに「御覧なさい、なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」(24節)と詰問した。それに対して主イエスは旧約聖書の故事(cf. サムエル記上21:1−7)を引き合いに出して答えられた。サウル王の怒りを買い逃亡生活をしていた頃、ダビデは一定の収入を得ることができなかった。空腹をおぼえたダビデは「食べてはならない」と規定されていた神殿に供えられたパンを祭司から受け取って食べた。主イエスは敢えてファリサイ派の人々も一目置く存在であるダビデの故事を用い、自由な発想の中で「決まりというものは何のためにあるのか」と問い返したのである。
律法の規定は「人を生かすため」に与えられたものであるにもかかわらず、「人を縛り死に追いやるもの」に変質しやすい。主イエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(27−28節)と語られた。「礼拝」も、我々が生きるようになるために設けられたものであり、人を縛るために「安息日の規定」が与えられたのではない。しかし、我々が「礼拝」することを「束縛」のように感じ、「礼拝」をやめてしまう時、神と我々との関係は捻じれてしまう。主イエスはそれをただすために「安息日の主」となって下さったのである。我々は何らかの行為と引き換えに罪を赦して頂くのではない。主イエスは我々の罪を引き受けて十字架にかかり、そのところで「あなたの罪を赦す」という一方的な神の愛があらわされた。その愛を受け止める時、我々は強いられてではなく喜んで礼拝をささげることができるようになる。キリスト教会は日曜日に礼拝をささげる。それは日曜に主イエスが復活され、救いが成就されたからである。礼拝において我々は復活のイエスを仰ぎ、罪を赦して下さる神を喜び、憚ることなく恵みの座に近づく。礼拝の日は「あなたはわたしの愛する子」という神の声を聴き、その神を喜びほめたたえる日である。決して「義務的な日」ではない。我々は礼拝の日、「生活を中断し神の前に出てくるように」と招かれ、祝福を頂き、神の愛をほめたたえ、神の栄光のために生きるようにと押し出されていく。礼拝とは、「神との正しい関係に引き戻される」場なのである。