列王記下23:1-10
引き続き学んできたように、この場面で発見され読まれた「律法の書」とは「申命記」の一部だったと考えられている。ヨシヤ王は「ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた」(23:2)。そして、改めて「主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されている契約の言葉を実行することを誓った」(23:3)。
ヨシヤ王は曽祖父ヒゼキヤ王の宗教改革を徹底した。エルサレムの神殿からも地方聖所からも、異教的な要素を徹底して排除した。とりわけ地方聖所には農耕に関連する神々の影響が入ってきやすかったため、バアルやアシェラの像が数多くあった。ヨシヤ王は地方聖所を廃止するにあたり、地方聖所の祭司たちをエルサレムに召集した。そしてその仕事を辞めさせたが、彼らの生活を保障した。10節には「モレクのために自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした」とあるが、これは「自然の怒りを鎮めるために人命を差し出す」という、日本で言うところの「人身御供」をやめさせたということである。
ヨシヤ王の宗教改革には3つの特徴があった。
一つ目は、それが「礼拝の改革」だったということである。ヨシヤ王は「祭司中心の礼拝」から「全会衆中心の礼拝」へとその神礼拝の在り方を変えていった。会衆が共に神を賛美しているところに、神がおられるからである。
二つ目は、「律法の書を読んだ」ということである。それまで、礼拝の中では「犠牲を捧げる」ことに重点が置かれていた。ヨシヤ王は「礼拝の中で共にみことばを聴く」ことを取り戻していったのである。
三つ目は、「過越祭を祝った」ことである(23:21)。それまで、この祝祭はないがしろにされてきた。しかし、「過越祭」には「神の先立つ救いと恵み、その神と契約を交わしたことを思い起こす」という大切な意味が込められていた。ヨシヤ王はその大切な祝祭を人々の中に取り戻したのである。現代の教会もまた、主イエスの贖いの恵みを覚え、「主の晩餐式」において同じように「主の民とされたこと」を感謝している。