「ホセア書」はホセアの物語(1−3章)、預言の言葉(4章以下)によって構成されている。その中心テーマは「神の裁きと愛」である。この両者は矛盾するものではなく、一枚のコインの両面のようなものである。
ホセアは神より「ゴメルという女性と結婚せよ」という命令を受ける。彼女は「淫行の女」(ホセア1:2)であった。神は、ホセアの言葉だけでなくその生き方をも通して語られた。それは神がイエス・キリストの言葉を通してだけではなく生涯を通して語られたのと同じことである。
妻ゴメルはやがてホセアの家から飛び出してほかの男のもとへ走って行った。ホセアは憤って離婚を宣言する(2:4−7)。しかしその後ゴメルは男に捨てられて、神殿娼婦になった。夫ホセアを捨ててほかの男に走っていったゴメルを、神はホセアに「愛せよ」と命じる。それは、「愛おしい」からではなく、「裏切って身を持ち崩した愛おしくない人を愛せよ」という命令である。それは、ホセアの生き方を通して、バアルに走ったイスラエルへの神の愛を示すためであった。
そこでホセアは「銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った」(3:2)。これらの数字は奴隷の値段にあたるが、いずれにせよ相当の支払いをしてホセアはゴメルを買い戻した(贖った)ことになる。「愛せよ」と言われても愛することはできないが、ホセアはそれでも神の命令に従うことによって、神の愛に目を開かれた。当然愛すべきものを愛する愛ではなく、裏切ったものをもなお愛する神の愛を、ホセアは経験させられたのである。
ホセアはゴメルに言う。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる」(3:3)。ここの後半部分は「わたしもまたあなたにそうしよう」とも訳されてきた(新改訳、口語訳)。「もう他の人のものになってはならない、自分もまたそうする」というホセアの言葉は、みだらな愛からゴメルを遠ざけるために同じ場所にいようという教育的配慮の言葉であった。
ホセアは、バアルに走ったイスラエルの民と、愛してくれる夫がありながら他の男のもとに走ったゴメルを対にして語っている。「イスラエルの人々は長い間、王も高官もなく、いけにえも聖なる柱もなく、エフォドもテラフィムもなく過ごす」(ホセア1:4)とあるが、「王」「高官」は依存すべき「王制、政治体制」、「いけにえ」「聖なる柱」は「バアル宗教の神殿」、「エフォド」は「神託を得るために使う占いの道具」、「テラフィム」は「偶像の一種」であるが、ヨセフ物語の中で、ヨセフがエジプトにやってきた弟ベニヤミンの袋の中に入れた「銀の杯」(創世記44章、「あの銀の杯は、わたしの主人が飲むときや占いのときに、お使いになるものではないか(44:5)」)であると言われている。イスラエルの民は、神による贖いを受けることによって、そのようなものに依存しない期間を持ち、見えざる神に信頼するようになるということがここで語られている。
そこにあるのは、目に見えるものに依存するところから解放される希望と神の愛である。「その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく」(ホセア3:5)。神は背信の民に怒りつつ、「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか」(ホセア11:8)と叫ばれる。ホセアは自らの結婚生活の痛みと破れを通して神の怒りと愛を知って語る預言者として召されていったのである。