ヨブは苦しみの中で徹底して神と戦う。これが「ヨブ記」の性格である。ヨブは自分の生まれたことを呪い、「死ぬことを望む」と叫ぶ。ヨブは苦しみのどん底で神と対話し続けたのである。
「ヨブ記」は、長い韻文が散文のプロローグ(1−2章)とエピローグ(42章)に挟まれた構成になっている。「ヨブ記」をいつ誰が書いたのかは不明のままである。「苦難の問題」が取り上げられているところから、「バビロン補囚の経験を踏まえて書かれたのではないか」という見方がある。しかし最初と最後の散文で描かれる神があまりにも素朴な在りようなので、「捕囚期よりずっと前の作品ではないか」という節もある。いずれにせよ、非常に教養のある著者の手によるものであろう。
「ヨブ記」の最初の場面では、裕福な生活をし、その中で神を畏れて生きるヨブの姿が語られる(1:1−5)。まるで「箴言」の語るような情景である(例:「神に従う人の家には多くの蓄えがある。神に逆らう者は収穫の時にも煩いがある」、箴言15:6)。
しかしすぐに「箴言」を克服しようとするテーマが突きつけられる。神とサタンの間で交わされる天上の世界の対話において、サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」と問う(1:9)。「信じればそれなりの祝福があるからヨブは信じているのではないか?」「もし神を信じても祝福がなく、かえって災いが降りかかるとしたら、それでもヨブは神を信じるか?」という投げかけに対し、神はヨブに災難が降りかかることを許す。持ち物が奪われ、家族が命を落とした(1:14−19)。しかしサタンの思惑に反し、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:21)と、なお神の名を讃えた。
次にサタンは、ヨブの肉体に手を伸ばし、「頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた」(2:7)。
苦しむヨブを見て、その妻は「神を呪って死ぬ方がましでしょう」(2:9)と言ったが、ヨブは取り合わなかった。
しかしついに3章から、ヨブの嘆きが始まる。ヨブはまず自分自身を呪い始める。4章から27章は、ヨブを見舞いにやってきた友人たちとヨブとの対話である。友人は苦難の中に置かれたヨブを慰め励まそうとするが、「こんなことでおびえる信仰じゃだめじゃないか」と、ヨブの信仰を奮い立たせようとする言葉を連ねる。友人たちの言っていることは、「お前が苦しみに遭ったのは、お前が神に対して罪を犯したからだ」「自分の罪を認めて悔い改めろ」ということである。友人たちの言葉を聞けば聞くほど、ヨブはいよいよいきりたち、「神は無垢な者も逆らう者も同じように滅ぼし尽くされる」(9:22)、「罪もないのに、突然、鞭打たれ殺される人の絶望を神は嘲笑う」(9:23)と、自らの義を主張する。「神に逆らう者が生き永らえ年を重ねてなお、力を増し加える」(21:7)、「神はその惨状に目を留めてくださらない」(24:12)というヨブの言いがかりに対して、友人は怒る。
38章からは神がヨブに答えるシーンが始まる。それは「神のほうがヨブに問いかける」という形での語りかけである。神話的な動物「ベヘモット」(40:15)、「レビヤタン」(40:25)がここで引き合いに出される。「ベヘモット」は人間から見れば格好のいいものではないし、「レビヤタン」は人間から見れば「どうしてこんなものが存在するのか」と思えるような存在である。これらはヨブを苦しめて懐疑に陥れる人生の矛盾に満ちた出来事を象徴している。すなわち「なぜ、このようなものが存在しているのか」ということは人間には答えられないのではないかという神からの問いかけがそこにある。「ベヘモット」が「神の傑作」(40:19)であり、「レビヤタン」でさえも神の支配の中にあるように、「なぜこのようなものが存在しているのか」と思いたくなるようなものも、全て神が造り支配しているのである。
ヨブは、知識を越えた神を自分自身の判断であげつらってきた自らの姿に気づかされる。「神の経綸」(42:3)とは、「神の支配、御心」を意味するが、それは人間には把握できないものである。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ロマ11:33)。ヨブはそのことを認めざるを得なくなる。
なぜ、「神は苦しみを、神を信じる自分に与え、神を信じない者を富み栄えさせる」という矛盾があるのか、ということに対して、最後の神の語りかけは、「神は人間の思いを超え、全てを支配の中に置いている」ということであった。これは、そう言われたからといって即座に「分かりました」と言えるようなものでもないが、ヨブは「そのとおりです」と言っている(42:3)。「あなたのことを、耳にしてはおりました」とは、神について知識としては頭で理解していたという状態であり、「しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」とは、神が我々の理性や思いを越えた存在であることを本当に思い知らされた状態である(42:5)。神は全く全能にして永遠の方であり、全ては神の経綸の中にある。ヨブは創造者の経綸の前に立ち尽くす。謎はいつまでも謎のままである。しかしその背後に神の計画があるということをおぼろげながら知ることで、ヨブは人間の限界を認めさせられた。神と人間の間には越えられない壁、溝がある。「神さまの思いを全て理解し、これでもう安心しました」ということは起こらず、人間は神との緊張関係の中に立たされ続けていくであろう。人間の知恵によって「神がいる」とか「いない」とか、「神はどういう方か」と勝手に論じていくことが人間の罪である。それは「人間が神のようになる」ことであり、神の場所に自分を置き、神の設けた人間の限界を乗り越えようとし、神との倒錯した関係に陥っていくことが、神に対する原罪だからである。
人間から神へ向かっていく道は閉ざされている。しかし、神から人間へ問いかけられ語られるという方向の中で、神がご自身の自由な判断で人間との関わりを持ってこられるとき、神と人間との間にある深い溝は埋められ、橋が架けられていく。イエス・キリストの出来事は、まさにそのことを指し示している。主イエスは人間の罪と死を乗り越え、神と人間の間に橋を架けてくださった。「ヨブ記」は大変難解ではあるが、「人間の苦難のどん底の中に、苦しみの一番大きいところに神がいてくださる」「神の手の届かないところに自分が立たされることはない」という信仰が語られている書である。