イスラエルの民と同時期に、ペリシテ人もまたこの地域に入ってきた。そして士師時代末期には「海の民」ペリシテ人がこの地域で圧倒的な力を持つようになってきた。ペリシテ人はカナンの先住民、イスラエルばかりではなく、エジプトまでも制圧しようとしたほどの勢いを持っていたのである。ペリシテ人は海岸地帯に都市国家を形成したが、それらの都市にはそれぞれの君主が存在した。そして、ミディアン人のようにある季節ごとに侵入するのではなく、それらの都市国家を拠点として、どんどん内陸に侵攻するのが彼らのやり方であった。ペリシテ人には「鉄の文化」があった(それまでは青銅器の時代)。彼らは鉄の戦車と強力な軍隊を擁していた。イスラエルは山岳地帯を拠点としていたため、ペリシテ人との戦いが山岳地帯で勃発した場合はイスラエルが有利であったが、平地では戦車があるペリシテが有利となった。戦いの中で、当時神殿のあったシロなどは陥落してゆく。
このような外部からの脅威にさらされ、イスラエルの民は「危機の時にその都度出てくる士師ではなく、王が必要である」とサムエルに願うようになった。周辺国家と比するならば、イスラエルだけがこの時代に「神の霊に促されて登場した指導者」を持っていた。それはすなわちイスラエルが「神が支配しているという信仰」に堅く立っていたことを示している。「王制を求める」ことは、「神を退けた」ということに他ならない。しかし結果としてイスラエルには王が立つようになった。
それでもなお、イスラエルの王は「神が選び立てる」存在であった。最初の王サウルの上にも「神の霊が・・・激しく降った」(サム上11:6)。そのような意味においては、サウルも最初は士師の一人であったといえる。
しかし、イスラエルの民は「短期的な指導者」としてではなく「王」としてサウルを立てた。「サムエルは民に言った。《さあ、ギルガルに行こう。そこで王国を興そう。》」民は全員でギルガルに向かい、そこでサウルを王として主の御前に立てた」(サム上11:14−15)。
それまでの士師は短期的な戦いの中で、そのつど部族の中から戦士を集めていった。しかし、サウルは「勇敢な男、戦士を見れば、皆召し抱えた」(サム上14:52)。「職業軍人」の登場である。
次第に王サウルと祭司サムエルの間に対立が生じるようになった。本来祭司がするべき宗教儀式をサウルが自分で執り行ってしまったのである(サム上13章)。イスラエルに「王」は立ったが、一方で「宗教的指導者」も立つという原則は継続していた。イスラエルの王は絶対君主ではない。王に対して祭司や預言者がものを言い、それぞれの役割を果たすという仕組みがイスラエルには存在した。「預言者」や「祭司」は「王」にも「信仰」を求め、進言し時には糾弾していく。これがイスラエルの大きな特徴である。他の国々においても祭司など宗教的指導者は存在したが、彼らはあくまでも「絶対君主」である「王」のもとにいる宗教的指導者でしかない。イスラエルでは原則として「預言者」「祭司」は王のもとにいない。彼らは神のもとにいたのである。
また別の箇所でもサウルはサムエルの命令、すなわち神の命令に従わなかった。サウルがアマレク人と戦争した際、そこにあるものを「一切、滅ぼし尽くせ」(サム上15:3)とサムエルが命令したのに、サウルはその言葉に従わず、「上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした」(サム上15:9)。サウルは多くの軍人を抱えていたため、彼らを養っていかなければならなかった。
ところで神はなぜ、「神の名によってすべてを絶やす(聖絶)」などという恐ろしいことを命じるのであろうか。この時代、戦争は「神の戦い」であった。それゆえに「戦利品を自分のものにしてはいけない」という意味で「聖絶」という考え方があった。この考え方を現代にあてはめるのは難しい。旧約聖書はキリストにおいて乗り越えられていった。旧約聖書の中で命じられていることや行われていることを一言一句そのとおりに受け止め実践しなければならないということはないが、それでも「新約は旧約の土台の上に成っている」ということも同時に見落としてはならないのである。
サムエルとの対立、続く戦争の中で、サウルの精神は次第に病んでいった。そのような状態のサウルを慰めるために、竪琴の名手である若いダビデが登用されるようになる。今日の箇所では、鎧なしにゴリアテに立ち向かっていくダビデの姿が描かれている。当時の羊飼いは獣や外敵から身を守るために、「投石器」を持っていた。ダビデはそれを利用して、大きな鎧に身を包んだゴリアテの眉間に石を命中させて倒した。「この戦いは主のものだ」(サム上17:47)、これが常にイスラエルのモチベーションであった。
ところがダビデがやがてサウルに疎んじられるようになる。戦のたびに功績をあげ、民衆がサウルよりもダビデを賞賛したからである。ダビデはサウルに追われる身となった。しかしダビデもただ逃亡していたわけではなかった。追われる中で軍事力を拡大していったのである。「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆彼のもとに集まり、ダビデは彼らの頭領になった。四百人ほどの者が彼の周りにいた」(サム上22:2)。そして次の23章では「四百人」が「六百人」になっている(23:13)。先ほどのサウルの話と同様、ダビデは召し抱えた者たちをどのように養っていったのであろうか。この点でダビデは「ずるがしこかった」。あるときは裕福な人物のところへ遣いをやって「このあたりを守っているのだから応分のお礼をせよ」などと言ったり(サム上25章)、自らの身に危険が迫っていると察すれば、イスラエルの敵であるペリシテ人の王のところに亡命したりする(サム上27章)。必要だと思えば他の国からの収奪もいとわない。そのような男であるにもかかわらずひたすら信仰深いところが、ダビデ物語の面白いところである。いったい「信仰が深いとはどういうことなのかと考えさせられる。サムエル記からは、精一杯生きている中でひたすら神を信じているダビデ像が聖書から浮かび上がってくる。
やがてダビデはエルサレムを陥落させ拠点にし、神の箱をエルサレムに移した。それはエルサレムを政治的・宗教的中心地にしていくということを示している。そして南北イスラエルを統一し、統一王国時代をつくっていった。王として権力を持ち始めたダビデは、神の目によしとされない多くの事件も起こした。聖書にはバテシェバの事件(サム下11章)、アブサロムの事件(サム下13章以下)などが記されている。まことに波瀾万丈のダビデの生涯であった。