マルコによる福音書 9:2−13
本日の箇所で語られているのは、実に不思議な出来事である。主イエスは3人の弟子だけを伴って「高い山に登られた」(2節)。聖書において、「山」とは「神に出会う場所」「神が語りかける場所」である。モーセにおける律法授受の場面もシナイ山であったし、復活の主イエスが弟子たちに出会われ、弟子たちが主イエスを神として礼拝したのも山であった(マタイ28:16〜)。聖書における「山」は「礼拝の場所」「神と出会う場所」「選ばれた場所」なのである。
高い山に登ると主イエスの姿が変わった。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(3節)という描写を通して、マルコは主イエスが「神性を帯びている」様子を表現している。
するとそこに「エリヤがモーセと共に現れ」(4節)、主イエスと語りあうという場面を3人の弟子たちは目撃した。「エリヤ」は紀元前9世紀に活動した預言者であり、当時の王と王妃に命を狙われ、苦しみの中で預言者として生きた。この場面には「預言者の代表」として登場している。「モーセ」は紀元前13世紀、イスラエルがエジプトから導き出された時の指導者である。モーセは「約束の地」への途上、「律法」を与えられた。その意味で、この場面でのモーセは「律法」を代表する。「預言」も「律法」も主イエスを指し示す旧約聖書の象徴である。「やがてメシヤが到来する」との古くからの約束は主イエスにおいて成就した。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(ローマ3:21)とパウロが語るところである。
弟子たちはこのような光景を目の当たりにし、恐れ戸惑った。これは素晴らしい霊的な経験ではあるが、どのように表現したらよいか分からない。その戸惑いのまま、ペトロは「仮小屋を3つ建てましょう」(5節)と口をはさんだ。これは「主イエスとエリヤ、モーセを祀る場所を建てよう」という発想であった。
すると、「雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』」(7節)。聖書における「雲」は「神の臨在」を示す。神は見えないが遍在される方である。神が預言者イザヤに語られた時も、神殿に雲がかかっていた。神は「主イエスは神の子、キリストである」「このキリストを祀るのではなく、キリストに聞け」と語られた。主イエスを見える形に固定化し偶像化するのではなく、我々は主イエスに「聞く」ことが求められている。礼拝とはまさに「主イエスに聞く」「主イエスを通してのみ聞く」ことなのである。
一同が下山した後、主イエスは先ほど啓示されたご自身の秘密を「復活」の時まで語ってはならないと弟子たちに命じられた。すると弟子たちは「死者の中から復活するとはどういうことか」(10節)と論じ合い、更に、預言されていたメシヤが到来する前には最後の預言者として「まずエリヤが来るはずだ」(11節)と言われていることについて主イエスに尋ねた。旧約聖書の預言に「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」(マラキ3:1)とあるが、それが「エリヤ」であると教えられてきたのである。
主イエスは「まずエリヤが来て」(12節)、そして「エリヤは来た」(13節)と言われた。マタイは「バプテスマのヨハネ」がその「エリヤ」であると考えている(マタイ17:13)。バプテスマのヨハネもまた権力者に殺害されるという時代の中での苦しみを受けつつ主イエスの到来のために道備えをした神の働き人であった。そして主イエスはここでもご自身の「メシヤ」(救い主)観を示されている。先週学んだように、そこにはイザヤ書53章に示されている「苦難の僕」としての「メシヤ」観が色濃い。神の遣わす「メシヤ」は苦難を通されるが、神はこの苦難を通して人とこの世界を救われる。神がこの世界を救うために「メシヤ」をお遣わしになる、それは長い間計画され、歴史の中で時至って成就する約束であった。その「メシヤ」は苦しみを通して栄光に至る方であり、苦しみを抜きにしてその栄光を語ることはできない。「メシヤ」が味わわれるのは人々が受ける苦しみの一番深いところにある苦しみであり、そのような意味で主イエスの知らない苦しみ悲しみはこの世に存在しない。主イエスは一番深い苦しみを通って我々を救いこの世を救う「メシヤ」なのである。
しかしこのことは弟子たちにまだはっきりと示されていない。それは「十字架と復活」を通して明らかにされるまで語られてはならないことだったのである。「救い」とは神が我々に示されるものであり、我々の思いや考えを超えたものである。しかし我々はあらかじめ、「救われるのなら立派にならなければならない」「自分が苦しみに遭っているのは天罰だ」など、「救い」のイメージを自分の中に用意していることが多い。もしも神の救いがそのような、こちらの考え通りのものであるならば、「神の救い」というものは我々にすぐ理解できる。しかし、神は我々が思いつきもしなかった形で救いの手を差し伸べてくださるのである。それゆえ、その救いは我々にとってすぐには受け入れがたいものかもしれない。では、どのようにしてそのような「救い」を受けることができるのであろか。それは、「主イエスに聴く」ことによる。主イエスに向き合い、主イエスのなされたわざやそのご生涯を通して、神の救いのわざを我々は教えて頂くことができるのである。
我々は当然、この世の苦難に際して「なぜ自分にこのようなことが」と思う。しかし実は苦しみを通してこそ神の手が示されているということがある。「この世の闇」と思えるような場所でこそ、神の光が輝くのである。苦しみの中で主イエスに出会い、主イエスに聴き、自分の十字架を背負って主イエスに従う者は、差し出された救いにあずかる。我々のいのちは「死と苦しみ」で終わるのではなく、その先に「救いの光」が待っている。これは聖書の根底に一貫して流れる救いの計画である。神が「光あれ」(創世記1:3)と言われた時から、この救いの計画はずっと貫かれている。