ヨハネによる福音書 17:1-5
この箇所の祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれている。旧約の時代には大祭司が人々の罪の赦しのために執り成しの祈りをささげた。ここでは主イエスがまずご自分のために祈ってから、弟子たちのために、また後の世の教会のために祈っておられる。 冒頭で主イエスは「父よ、時が来ました」(1節)と呼びかけられた。「時」とは繰り返し学んできたように、主イエスにとっての「父なる神から定められた時」、とりわけ目前に近づく「十字架の死の時」を指している。この「死」について主イエスは「父なる神の栄光をあらわす」ものであると捉えておられた。この1節の祈りは、主イエスにとって「自分の死を通して父なる神の栄光があらわされるように」という祈りである。そしてそうなるために主イエスは「子に栄光を与えてください」(1節)と願われた。父なる神に与えられた「時」と「わざ」を自分が全うできるように、そのために力を与えてください、という祈りである。 このところから改めて「時」ということに思いを馳せることができる。『コヘレトの言葉』3章には有名な「すべてのことに時がある」という箇所がある。人生には例えば「急な死」など、「神の時」とは思えないような出来事が起こってくる。どのような時にも、それを「神の時」として受け止める信仰、どのような「時」も神が定められ、よしとされたのだと受け止める信仰を頂くことが必要である。そしてその「時」に、「神の栄光」をあらわすことができるように、主イエスに倣って祈っていきたい。自分の力では受け止めることができない「時」も、信仰をもってそれを受け止めることができるように祈ることを、我々はここで主イエスの姿から学ぶのである。 2節の「権能」とは、「力」とも訳せる語である。それは「すべての人に永遠の命を与えることができるようになる力」である(cf., ヨハネ3:16)。この「永遠の命」について、ここで主イエスは「唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)と定義しておられる。主イエスは父なる神と全く一つの存在であるが、同時に「遣わした父なる神」と「遣わされた御子なる主イエス」は別の存在でもある。「聖霊」もまた「遣わされた神」であることを、『ヨハネによる福音書』はここまで縷々語ってきた。「父」「子」「聖霊」の神は「一」であると同時に、我々に対してご自身をあらわす方法や働き方において別なのである。 3節の「知る」とは、これも繰り返し学んできたように、「知識として知る」のではなく「人格的に知る」ことを指している。我々人間同士が互いに知り合うということを考えるとわかりやすい。誰かを「知っている」と言えるなら、自分はその人と「交わり」を持っているということになる。日頃からよく話をし、互いの思いを互いに打ち明けることができ、時にはお願い事をしたりされたりもする「交わり」である。そしてそのような「交わり」が深ければ深いほど、自分はその人をよく「知っている」ということになる。 我々は主イエスについて証言する聖書を通して、主イエスがどのような方であるか常に知っていくことができる。そこには聖霊が働かれる。そして父なる神は主イエスを通してご自身をあらわされるので、主イエスを知ることはまた父なる神を知ることでもある。我々はまず、主イエスがどのような方であるかを知り、何を語っておられるか、「主よ、お話しください」と祈りつつ聴く。そしてその愛を確信して、何事でも主イエスに祈る。何を祈ってもよい。神は時宜に適って祈りに応えてくださる。苦しみの中で祈るとき、なかなか祈りが聴かれないように思うが、その時も神はじっとその祈りを聴いておられる。多少時間はかかるかも知れないが、神の最善の「時」に祈りに応えてくださる。だからこそ、主イエスも失望しないで祈るようにと勧めてくださっている。神が自分の思いを予め知っておられるからといって祈らなくてよいのではない。祈りは、互いに知り合う「交わり」の中でとても大切なものである。 主イエスは十字架の死を前に、この死の苦しみを出来ることなら取りのけて頂けるようにと、恐れ、苦しみ悶えて祈られた。主イエスにとって、十字架の死とは単なる肉体の苦しみということを超え、「父なる神に捨てられる」という想像を絶する苦しみの死であった。しかしそのことによりすべての人が救われ、永遠の命を得ることができるようにと、主イエスは十字架への道を歩まれる。『イザヤ書』53章には有名な「苦難の僕」の預言がある。「神の僕」と言われる人が、輝かしい栄光とは程遠い姿で苦しみ、見捨てられていく。しかし彼は黙して苦しみを受けていく。1-10節には僕の「苦しみ」が切々と語られるが、11節には「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」とある。主イエスもご自身の苦しみを受け止めていくこの「時」に、ご自身の死により多くの人が救われるという「実り」を見ながら希望をもっておられたのである。