ヨハネによる福音書8:12-20
聖書全体を通して、主イエスが「神から遣わされた方」「父なる神と一体である神の御子」であるということが語られているが、本日の箇所においても改めて「世の光」(12節)という表現によって、「イエス・キリストは誰か」ということが語られている。「わたしは・・・である」という表現は『ヨハネによる福音書』に頻出するが、特に主イエスが御自身について語られる「宣言」の際に用いられている。ギリシャ語原文においては、主語を置かなくても動詞を見れば主語が分かるという構造になっているにもかかわらず、「わたしは」というように主語を置くことによって、その語られるところの内容が強調されている。
「世の光」としての主イエスについては、既に1章において学んだ。旧約の時代より預言されてきた(イザヤ60:1-2ほか)、神が与えることを約束してくださったのが、「まことの光」として世にこられた主イエスである。そして「世の光」である主イエスの招きに従って歩む者は「暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(12節)という約束の内に入れられる。
「主イエスは世の光である」という表現には、いくつかの意味が込められている。第一は、「世の闇をあらわにする方」としての「光」である。この世は闇に覆われ、悪魔的な力に支配されている。平和を願いつつも現実は平和と程遠い世界に我々は生きている。そして一人一人の内には隠れた罪が存在する。主イエスは、そのような世の隠れた罪をもあらわにされる「光」なのである。前回の箇所でも、主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8:7)と言われ、その場にいた一人一人の自分自身で自覚していなかった罪、愛のない自分自身の実態があらわにされた。人間は様々な意味で自己を主張するゆえに、互いに対立する。そこに憎しみが生まれ、争いが起きる。争いの中に暴力や戦争が始まる。家庭内暴力に苦しめられ、暴力をふるう夫から逃れ、隠れて過ごすうちに幼子と共に餓死してしまった女性のニュースを耳にした。人間の内にあるどうしようもない悪しき力を思わされた。聖書の語る「罪」とは、神から離れ、真の希望も人生の意味も目的も持たず、この世の悪魔的な力に支配され刹那的に生きる姿を指している。
第二に、主イエスはそのような「悪魔的な力から救いだす光」である。闇の中に生きる者を救うためにこの世に来られた神の御子として、主イエスは御自身を語ってくださる。
第三に、主イエスは「本当の人生の意味と目的を明らかにされる光」である。我々はどこから来てどこへ行くのか。主イエスを信じ、主イエスの導きに従って歩む時、我々は生かされている意味と目的を知ることができる。まさに「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)という信仰告白のとおりである。
第四に、主イエスは「永遠の命に導く救いの光」である。「命の光」(12節)とは、「永遠の命」という「光」である。信じる者は「永遠の命」としての「光」を持つ。「永遠の命」とは、神に愛され神に知られ神と共にある「命」である。そのような「命」のゆえに、我々は暗闇の人生を歩む中でも喜びと平安を頂くことができる。「主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう」(詩編27:1)。我々を神と結び合わせ、神と共に在る永遠の命を与えて下さる「世の光」である主イエスを知る時に、我々は色々な恐れから解放される。
「わたしは世の光である」という主イエスの自己宣言を、ファリサイ派の人々は「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」(13節)と却下した。律法においては、ある事柄に関して二人以上からの証言を得なければ、それは真実と認められないのである。
それに対して主イエスは御自身の自己宣言が「真実である」(14節)とお答えになった。主イエスの言葉が真実であるのは、主イエスが神から来た方であるがゆえのことである。主イエスの言葉と行為そのものが、主イエスが神から来た方であることを証ししている。更に「わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」(18節)と主イエスは言われた。これらのことは律法の定めを超えている。しかし「主イエスが神から来た、まことの神の御子、世の光」であるということは人間には判断できない。人間が「肉に従って裁く」(15節)、すなわち「人間の知恵と判断」で考えても、上からの力によらなければ、人間はそれを知ることができない。それゆえに父なる神が証しして下さる時、人間は主イエスが「世の光」であることを知ることができるのである。このことは「聖霊によらなければ誰もイエスを主であると告白できない」ということに通じる。その意味では、信仰も神から与えられた恵みであると思わざるをえない。我々もまた、主イエスを証しする神の霊の導きによって信仰を頂き、「イエスは主である」と告白できるのである。「肉」の判断によってどれほど詮索しても、主イエスがどのような方なのかは普通分からないし、納得できない。
それに対して主イエスは「わたしはだれをも裁かない」(15節)と宣言された。主イエスがこの世に来られた目的は「人間を救うこと」だからである。神と人との間に立ち、人を神に結び合わせ、永遠の命に生かすことが、主イエスの来臨の目的である。しかし、その主イエスとの関係によって、自ら裁きを招くことも起こり得る。その際、主イエスの裁きは「真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである」(16節)。このように再び主イエスは、御自身と父なる神が一体であることを語られた。
主イエスが「父が私の証人だ」「わたしと父は一体だ」と言われても、ファリサイ派の人々にはそれが理解できず、「あなたの父はどこにいるのか」(19節)と尋ねた。それに対して主イエスは「まず、あなたがわたしを知ったなら、あなたは父なる神を知ることができる」「わたしを見る者は父なる神を見る」と応じられた。「神を知る」とは「イエス・キリストを知る」ことである。我々は世に遣わされた神の御子を通してしか、神を知る道を持たない。
ユダヤ人にとってこれらの言葉は死に値する神への冒涜であった。「しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである」(20節)。聖書は繰り返し、すべてのことについて「神の時」があるということを語っている。