ヨハネによる福音書1:19-28
バプテスマのヨハネについてはそれぞれの福音書が語っているが(マタイ3:1-、マルコ1:1-、ルカ3:1-)、「ヨハネによる福音書」においてもまた本日の箇所において語られている。ヨハネについては既に「光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるため」(7節)と、その働きについて紹介されていた。その「証し」について、本日の箇所で具体的に語られている。「神の言」である主イエスが到来し、その方を証しする者としてヨハネが立てられたのである。
このヨハネについて「エルサレムのユダヤ人たち」(19節)が調査を始めた。ここではエルサレム神殿を拠点として宗教的・政治的にユダヤの民衆を指導・支配していたユダヤの指導者たちを指して「エルサレムのユダヤ人」という語が用いられている。彼らはユダヤ人議会の構成メンバーでもあった。当時のユダヤはローマの支配下にあったものの、ローマの植民地政策は各地の宗教を容認するものであったため、ユダヤにおける宗教的な権限はユダヤ人自身に与えられていた。ローマに逆らわない限りにおいて、ユダヤの宗教指導者たちは宗教、ひいては社会と生活全般の事柄に関する権限を有していたのである。
ユダヤの指導者層の中には「サドカイ派」と呼ばれる人々が存在した。彼らはローマの支配を受け入れ、その現状のもとで現実的に物事を考えた。一方、「ファリサイ派」と呼ばれる人々は、ユダヤの伝統である「律法」を重んじ、その伝統の担い手としての意識のもと、民衆を指導し生活全般の相談に乗った。彼らは徹底して「律法」を生活の土台に据えようと努力し、ローマに対しては距離を保っていた。
そのような「エルサレムのユダヤ人」たちは、「祭司やレビ人」(19節)をヨハネのところに送った。「祭司」とは当時エルサレム神殿において宗教的儀式を担った人々であり、「レビ人」は「祭司の助手」として働いた人々である。恐らくこの時、「レビ人」は「祭司の警護」のために共に遣わされたのであろう。何の目的で、「エルサレムのユダヤ人」は彼らをヨハネのもとに送ったのであろうか。「エルサレムのユダヤ人」たちは、荒野で預言者として立つヨハネのもとにユダヤの民衆がこぞって群がり集まるのを恐れた。そして、自分たちの預かり知らぬところで、自分たちの認可も受けずに「洗礼を授ける」(25節)というヨハネの宗教的な行為にある種の危機感をおぼえた。そのため、ヨハネのことを調べあげようと考えたのである。
ヨハネのもとに集まったユダヤの民衆たちは、エルサレム神殿を中心とした宗教権力や、ローマの支配のもとに甘んじて自己保身を図ろうとするユダヤの指導者たちに何も期待をしていなかった。そして、そのようなグループとは無縁である荒野の預言者ヨハネに「待望のメシア」としての期待を寄せたのであろう。主イエスもまた、ご自身の生涯においてエルサレム神殿を自身の権威付けと保身のために利用する人々を批判されたことが思い起こさせられる。
「祭司とレビ人」はヨハネに「あなたは、どなたですか」と問いかけた(19節)。それは言いかえれば「あなたは何の権威によってこのようなことをしているのか」という問いである。まずヨハネは「わたしはメシアではない」(20節)と断言した。当時のユダヤ社会における「メシア期待」には様々な側面があると言えるが、特にローマの支配の中で苦しんでいた民衆は、ユダヤをローマの支配から解放する「政治的救世主」の出現を待望していた。またそのような気運の中で「メシア」を自称しローマに抵抗しようとする運動家も登場した。「エルサレムのユダヤ人」たちは、そのようなクーデターの扇動者が登場し、民衆によるローマへの抵抗運動が起こることをも危惧していた。
ヨハネはまた「あなたはエリヤですか」という問いに対してもはっきり「違う」と否定した(21節)。「マラキ書」には「裁きの日の先駆者」として「再来のエリヤ」が遣わされてくることが語られているために(マラキ3:23)、このような問いがなされたのであろう。「あなたは、あの預言者なのですか」という更なる問いに対しても、ヨハネは「そうではない」と答えている(21節)。「あの預言者」とは、当時暗黙のうちにある預言者として了解されていた人物かもしれないが、特定することはできない。このような何重もの問いの中に、「このヨハネという人物が何ものであるのか知りたい」という願いがよく表わされている。
主イエスはヨハネのことを、終わりの時に神の裁きが来る前に道を整えるためにやってくる「エリヤ」として語っている(マルコ9:12-13)。ヨハネ自身は否定し、そのような意識を持っていなかったにも関わらず、むしろ、そのような意識を持っていなかったゆえに、ヨハネは神から与えられた使命を果たすことができた。ヨハネは自分を無にし、ただ与えられた場所で精いっぱい、義なる神の前に悔い改めを説く預言者として立った。それによって、来たるべきキリストの道備えをすることができたのである。「自分はメシアでもなくエリヤでもない」と確言することによって、ヨハネは主イエスを指差した。自分に対する人々の期待に応えることなく自分を無にすることによって、ヨハネは真の救い主を告白したのである。「公言する」「言い表す」(20節)とは共に「信仰を告白する」という意味の語である。「信仰告白」とは決して「自分たちはこういう者である」と主張したり、自分たちを良く見せようとするためのものではなく、ひたすらに「イエス・キリストを証しする」言葉である。
いずれにせよ、ヨハネの答えは使者たちを満足させるものではなかった。ヨハネが何者であるのか調査するためにやってきたのに、何も分からないままで「エルサレムのユダヤ人」たちのもとに帰るわけにはいかない。食い下がる彼らにヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えた(23節)。「声」は「主の道をまっすぐに、平らにせよ」と呼びかけることにより、キリストが来られその働きをなすために備える役割を果たすものであった。また「声」とは「説教者」であるとも言える。ヨハネはキリストの到来を語り指差す「証人」であり、キリストを語る「説教者」であった。同じように一人一人のキリスト者もまた、キリストを証しする「証人」であり、キリストを語る「説教者」としての「声」である。
使者たちはますます疑問に思い、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるのですか」と詰め寄った(25節)。当時の「洗礼」とは、異邦人がユダヤ教徒に改修する際に施された儀式であると説明されることがあるが、いずれにせよ「宗教儀式」である。前述のように、ヨハネは何の権限のゆえに勝手にそのような真似をしているのか、と使者たちは問い詰めるのである。
ここでも再びヨハネはキリストを指し示した。ヨハネの授ける「水」の「洗礼」は、キリストによる「霊」の「洗礼」(cf., マタイ3:11)を証ししている。キリストは「死ぬべき古い人間」に「新しい生と新しい命」を与え復活させる救い主である。「水」の「洗礼」は、そのようなキリストによる救いを指し示し証ししているのだとヨハネは語った。教会が「水」の「洗礼」を授けるのも、同じようにキリストによる「霊」の「洗礼」、キリストによる救いを指し示すためである。そうでなければ、教会における「水」の「洗礼」は全く無意味なものになってしまう。そして「霊」の「洗礼」を授けてくださる方は、ご自身による救いのわざのために教会における「水」の「洗礼」をも用いてくださっているのである。
このようにヨハネは徹底してイエス・キリストを指差し証しをした。ヨハネの生きた時代もまた、暗闇に閉ざされ、民衆はどこに希望をおいてよいのか分からない時代であった。その中で「キリストこそ、まことの光をもたらす方なのだ」と告げ知らせ、その「光」について証しをし続けたのがヨハネであった。今日に生きる我々もまた、希望を見出せない不安にさらされている。しかしその中で「キリストこそまことの希望であり、まことに依り頼むべき方である」と証しする使命の与えられていることを互いに確認し合いたい。経済的にも政治的にも厳しい時代の中で、時代はその厳しさから解放してくれる「メシア」を求めている。しかし我々もヨハネのように暗闇の中で「まことの光」を指差していかなければならない。この時代の中で「イエスはキリストである」と信じて告白するとはどういうことなのか、考えていきたい。