ヨハネによる福音書 1:43-51
本日の箇所では、主イエスとフィリポ、そしてフィリポの友人であるナタナエルとの出会いが記されている。
フィリポは12弟子の一人であり、「ヨハネによる福音書」にしばしば登場する(6:4-6, 12:20-21, 14:8)。主イエスはフィリポに出会い、「わたしに従いなさい」と声を掛けられた(43節)。出会った者に「従いなさい」と言ってくださる主イエスに応えて従うことは、人間的な考えでは難しいように思える。しかし、「従っていく時に神が最善をなしてくださる」という信頼に立っていくことが大切である。
そして主イエスを知り、主イエスに従うようになったフィリポは、友人であるナタナエルのもとへ向かい、主イエスについて証しをした(45節)。「ヨハネによる福音書」1章においては、繰り返し同様のことが物語られている。まず洗礼者ヨハネはアンデレらに主イエスを証しした。それを聞いて主イエスに従うようになったアンデレは、兄弟シモンに主イエスを証しし、シモンも主イエスに従う者とされた。主イエスは「一人から一人へ」と、人と人との交わりや関係の中で伝えられていく。伝道とはそのようなものであると教えられる。教会学校の分級もそのような場所である。親しい交わりの中で一人一人が主イエスを証ししていくことが大切であり、決して聖書研究だけで終わってはならない。聖書を学ぶことによって出会った主イエスを証しすることが、教会学校の分級の目的である。
「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(45節)と、フィリポは主イエスを証しした。古くから神によって約束されており、イスラエルが待望していた「メシア」「救世主」が「ヨセフの子」、すなわち「人の子」であったという告白である。このように「人となられた神の言」である主イエスについて、教会は「真の人、真の神」と告白するようになった。主イエスが「50%神、50%人間」ということではない。「ヨセフの子イエス」は我々と全く同じように、食べ、疲れ、眠り、泣く、「100%人間」であった。しかし同時にこの方こそ「100%神」であると、教会は主イエスを告白するのである。
ナタナエルについて、「ヨハネによる福音書」では「復活の主イエスに出会った弟子の一人」として紹介している(21:2)。他の福音書において、12弟子の中に「ナタナエル」という名の弟子はいない。「バルトロマイ」と称される弟子と同一人物ではないかという説もある。ナタナエルはフィリポの証しを聞き、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」という冷淡な反応を示した(46節)。「ナザレ」という地は、首都エルサレムから遠く、ユダヤ人以外の人々も多く生活している地であった。そのように「異邦人」と多く交わる地である「ナザレ」は、或る意味でユダヤ人の中で見下されていた地方であるとも言える(cf., ヨハネ7:52)。人々の間には、「待望のメシヤが到来するならば、エルサレム以外にはない」という思いがあったのかも知れない。しかし、神は全く人々が予期しない地から救い主をおこされた。神とは、そのような方である。
いつの時代も、主イエスを人々に証しする時にこのような実に冷ややかな反応に出遭うことがある。キリスト教に対する「誤解」「先入観」などがあってか、なかなか人々に主イエスの事を知ってもらえない。フィリポもそうであった。その時フィリポは、ナタナエルに「来て、見なさい」と言った(46節)。どんなに素晴らしい証しの言葉をもって主イエスについて語っても、受け入れてもらうことは難しい。そのような時はフィリポのように、その人を主イエスのもとに連れていけば良いのである。現代で言えば、「教会に来て、見てください」とお誘いすることである。教会は「礼拝」をする場所であり、そこで人々は神を喜んで賛美し、神の言葉に真剣に耳を傾ける。そのような「礼拝」の場に、主イエスは臨在しておられる。「礼拝」で我々は主イエスに出会うことができるのである。その際、教会では分級でも礼拝でも、初めて来た人にも分かるような言葉が語られなければならない(cf., Ⅰコリント14:20-25)。教会の「交わり」においても配慮が必要である。違う者同士が受け入れ合うことは難しい。しかし、そのような者同士が主イエスによって結ばれているのが教会の「交わり」である。主イエスによって、新たな思いで信頼し合い、受け容れあっていくことが大切である。そうでなければ、主イエスを証しする教会としての使命を果たすことができない。
フィリポに促され、主イエスのもとにやってきたナタナエルの心の中を、既に主イエスは知っておられた(47、48節)。ナタナエルは「この方に知られている」「この方に捉えられている」ということに気づき、驚愕した。そして「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」という告白に導かれていった(49節)。人が「イエスはキリスト」と信じ従うようになるのは、主イエスが先にその人を見出し、声をかけてくださることによる。我々は「自分で選び、自分で決めて教会に足を踏み入れた」と思っているかも知れない。しかし、先に神が自分を知り、見出して導いてくださったのだということを、後になって知るようになる(cf., ヨハネ15:16)。生けるキリスト、生ける聖霊の働きは我々にとって「後で分かる」ようなものである。
ナタナエルの信仰告白を聞き、主イエスは「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と言われた(50節)。「イエスはキリスト」と信じる告白は、信仰の出発点であり、そこからますます確かな信仰に導かれていくのだということを、主イエスは信じる者に約束してくださっている。「信じます」という告白は、「神との交わり」「神の恵みを知ること」の始まりに過ぎない。そこから神との交わりが深められ、ますますその多くの恵みを知るように導かれていくのである。
主イエスは更に「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と続けられた(51節)。主イエスがこの地上に来られ、福音を宣べ伝えることによって、我々が神の御心を知るようになる。それが「天が開く」ということである。主イエスによって地上と天上がつながれた。それが人の子として来られた主イエスの働きである。「創世記」には天使が天と地をつなぐ梯子を昇り降りする場面があるが(28:12)、主イエスはその成就である。「神の家」である教会の「礼拝」は、まさに主イエスによって天と地が結ばれている場である。主イエスを通して神の恵みが我々にもたらされ、主イエスを通して我々の祈りは神に受け入れられていく。「礼拝」という場で主イエスは我々のうちに来て下さり、主イエスという「梯子」を昇って我々は天に向かうことができる。「礼拝」にはそのような双方向性の要素があることをおぼえたい。悩みも罪も死も、すべてを包み込み、神へ導いてくださる主イエスに我々はすべてを委ねることができる。そして、すべてを委ねる時に主イエスは最善を尽くしてくださる方である。51節は「あなたがた」という複数形で語りかけられている。この約束は、主イエスを信じるすべての者に与えられているのである。