マルコによる福音書13:14-27
本日の箇所に描かれている「大きな苦難」は、「ダニエル書」や旧約続編「マカバイ書」に描かれている場面を彷彿とさせる。
紀元前167年、ユダヤはシリアによる支配を受けていた。シリア王アンティオコス・エピファネスは「自身こそ神の顕れ」と称しシリアの支配地域一帯に自身の像を立てさせそれを拝ませた。エルサレム神殿にも彼の像が立てられ拝むことが強要され、その命令に服従しない者は弾圧されていった。「立ってはならない所」(14節)とはまことの神を礼拝するべき「神殿」のことであり、「憎むべき破壊者」(14節)がそこに立つということは「神ならぬ者が自分こそ神であるとする状況」を表わしている。
そのような状況が起こった時こそ「終わり」であるとユダヤ人たちは思ったかも知れない。ユダヤの歴史には常に苦難がつきまとった。エジプトにおける奴隷生活の中で神に叫んで救いを求めた時代、アッシリアやバビロニアに国が滅ぼされた悲惨な時代を経て、当時のユダヤはシリア王に支配され過酷な状況を強いられるようになっていた。更にはこの先、紀元70年にユダヤはローマ帝国により壊滅させられ、人々は土地を失い離散を余儀なくされていく。そして第二次世界大戦の折、ユダヤ人はヒトラー率いるナチスの支配の中で迫害され、強制収容所やガス室の悲劇が起こった。そのような局面に立たされるたび、常に「これで自分たちは終わりだ」「この世は終わりだ」という悲惨な身震いするような苦しみを通らされたのがユダヤの民であった。
主イエスはここでユダヤ人に向けて語っておられる。しかし、ここで語られている事象は「終末」そのものではなく「世の終わりを指し示す前兆」に過ぎない。未曾有の困難に出遭ったなら「逃げなさい」(14節)と主イエスは指示された。困難を前に失望するのではなく、これ以上厳しい時代にならないよう希望を持って祈りながら生き延びなさい、生きなさい、どんなことがあっても生きていきなさい、主イエスはそのように願ってくださるのである。教会は主イエスの言葉と、主イエスによって与えられる希望によって生きることで、試練に持ちこたえることができる。
試練は繰り返し起こる。しかしそれ自体は「終わり」そのものではなく、「産みの苦しみの始まり」(8節)であり、新しい救いの時の始まりを指し示すものなのである。そして神は「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)とパウロが記しているように、必ず「出口」を与えてくださる。歴史においては様々な苦難が襲い掛かり未曾有の苦しみが起こる。しかしその背後には、ご自分の目標に向かって歴史を導かれる主がおられる。絶望の極みのように思えても、それに逆らい将来に望みを抱き、信じ、耐え忍ぶようにと、主イエスは繰り返し語られる。
現代のあらゆる苦難も神の支配の中にあり、神は歴史を「終わり」「終末」へと導かれる。「エスカトロジー」(eschatology、「終末」)とは「目的」という意味を含む言葉である。聖書の語る「終わり」は「神の目的の成就の時」であり、その歴史観には「始まり」と「終わり」がある。我々ひとりひとりの人生も「目的」という「終わり」に向かっているのである。人間の歴史には繁栄と栄光がある一方、崩壊もある。その崩壊の中で神は「終わり」の時を指し示される。「神の国の到来」はそのような歴史の滅亡の中でまさに語られていく。それは「人間の限界」と「歴史の終わり」を指し示す時であり、「神の到来」を指し示す先触れなのである。
24、25節はまさに天地の崩れる「歴史の終わり」を表現している。この世界は未来永劫に続くのではなく、必ず「終わり」が来る。そしてその時にこそ「神の目的」が達せられるのである。「人の子」は再び来られる時、「大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくる」(26節)と記されているが、この「雲」とは聖書において「神の臨在」を示す言葉であることを理解したい。終わりの時、我々のうちに神が「人の子」の顔をしてあらわれてくださるというのである。パウロは終わりの時について「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(Ⅰコリント13:12)と記した。現在、我々は信仰の目によって、救いの主であり人生を変え持ち運んでくださる主イエスを仰ぎみている。しかしそれは銅鐸の鏡に映ったような、輪郭のはっきりしないもののように思える。しかし、こちらが主イエスに知られているようにこちらもはっきりと主イエスのことが分かる時が来る。それが「終わり」の日である。それがいつであるのかは分からない。また我々個人にも「肉体の死」という「終わり」の時がやってくる。「死」という眠りにつく時、そこには時間の感覚がない。目覚めた時、目の前には「天国の朝」が待っている。キリスト者には、そのような時が約束されている。「世の終わりのラッパ鳴りわたる時、・・・その時我が名も呼ばれなば必ずあらん」(『新生讃美歌』336番1節)と賛美されるように、世の終わりの先にある神の国においては信ずる者の名が呼ばれ、その時にこそ、人の子主イエスによってご自身をはっきりと示す神と「顔と顔とを合わせ」るのである。
主イエスはそのように話されながら「あなたがたは気をつけていなさい」(23節)と何度も言われた。「気をつける」とは「目を覚ましている」ことである。それは換言すれば「再び来る主の日があるということを忘れないでいなさい」という勧めである。終わりの日をおぼえる中でこそ、この世の苦難に希望を失わずしっかり生きていける。我々は繁栄の時、平穏の時に「主の日」がやってくることを忘れるかもしれない。しかし、この世界も我々の人生も確実に「主の日」に向かっている。我々がささげる「主日礼拝」は、「主が復活された」時としての「主の日」を記念する。同時に、我々はそのところで「終わりの日」としての「主の日」をおぼえるのである。「終わりの日」にそうしなければならないように、我々は自分の仕事を中断して「主の日」の礼拝をささげる。「マラナタ」(「主よ、来てください」)と、キリスト者は初代教会の頃から礼拝で唱和し続けてきた。主イエスを信じ従う者にとって「終わりの日」は「救いの日」である。「主の日の礼拝」はそれをおぼえる時でもある。