マルコによる福音書 12:28-34
神はご自身の人間に対する愛と期待とを具体的に表わすために、イスラエルを選び、律法を与えられた。主イエスの時代には「律法学者」(28節)と呼ばれる人々が既におり、人々が生活の中で具体的にどのように律法を守っていけばよいのか解釈し指導をしていた。しばしば宗教国家ではそのような宗教的指導者が政治的指導者よりも格上であるケースがあるが、当時の律法学者たちもユダヤ社会において人々の尊敬を集めていた。しかし、彼らの律法解釈や指導は行き過ぎていたように思われる。例えば十戒には「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(申命記5:12-14)という掟があるが、律法学者たちはこの掟を生活の中で具体的に守るとはどういうことかと考えた末、「安息日には○○メートル以上歩いてはならない、それは労働と捉えられる」などの様々なルールを付け加え、人々に課していったのである。当時、十戒は613もの規定に細分化されていたという。彼らは「何が生きる上で本当に大切な神の戒めなのか」という本質を見失っていた。現代に生きる我々もまた、様々な情報に囲まれる中で「何が大切なことなのか」と問いかけられている。
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(28節)という律法学者の質問は、このような背景から出てきたものであった。それに対して主イエスは「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」(29-30節)と答えられた。この箇所は「申命記」の引用である(6:4-9)。人々が、とりわけ律法学者たちが古くから知っているはずの掟を、主イエスは改めて「第一のもの」として示した。
神の戒めの言葉は「聞け(シェマー)」から始まるものが多い。我々にとって「まず神の戒めを聞くこと」が大切であるということが示されている。様々な神々があると言われる中で、彼らが信じ仰ぐべき神は「唯一の主」であると宣言される。その「主(ヤーウェ)」は、かつてモーセがその名を尋ねた時に「わたしはある」(出エジプト3:14)と答えられたが、それは「わたしはまさに存在する者である」「あなたが何と言おうとわたしは在る」という宣言であった。そのような神は、全てのものを在らしめる存在であり、全世界の創造者にして支配者であられる。我々もまたこの神によって在らしめられており、我々の生活の拠り所を在らしめるのもこの神である。「主」という名は、そのような信仰を告白する大切な言葉である。
それではその「主」を「愛する」とはどのようなことであろうか。通常、「愛する」という言葉は「相手を大切にする」「相手の願いや思いを尊ぶ」などと換言し得る。「愛する」という言葉をそのように理解するならば、「神である主を愛する」とは「神を神として尊ぶ」ことであり、その神が何を願っておられるのかという御心を大切にするために「神を崇め、まず神から聞く」ことであると言えよう。そのことが信仰者の生きる基本である。
また、主イエスは「第二の掟」として「隣人を自分のように愛しなさい」(31節)と命じられた。これは旧約聖書の引用ではなく、主イエスの語られた「新しい戒め」である。主イエスは多くの「新しい戒め」を語られた。例えばある時は「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43-44)と権威をもって教えられた。「隣人を愛し、敵を憎め」とは十戒から派生したユダヤ人の解釈である。彼らにとって「隣人」とは「同胞」のみを指した。そのような区別がある中では「敵を憎む」ことが「隣人を愛する」ことだったのである。主イエスはそのような区別を取り払われた。有名な「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10:25-37)においても、主イエスは「隣人とは誰なのか」「隣人とは誰でも皆のことを指すのだ」と教えられている。そして、その「隣人」を自分のように愛することが命じられているのである。
この第一の掟と第二の掟は、切り離すことができない。「神を愛する」ことは「人を愛する」ことである。しかし、この「第一」「第二」という順序ははっきりしている。まず「神との関係」「神との交わり」「神礼拝」が第一であり、そこから当然第二のものがついてくるのである。まず神を全身全霊で愛するところに切り離しがたく与えられた戒めが「隣人を自分のように愛する」ことである。そこには「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)という主イエスの愛が先立っている。
『ハイデルベルク信仰問答』(1563年)には次のような問答がある。
【問4】 それでは、神の律法は、わたしたちに、何を要求するのですか。
【答】 キリストは、それを、マタイによる福音書第22章の中に、簡潔におまとめになりました。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
【問5】 あなたは、このすべてを、完全に守ることができますか。
【答】 いいえ、できません。なぜならば、生まれつき、神様とわたしの隣り人とを憎む傾向にあるからです。
このように、本当の意味で神を神として礼拝し、自分を愛するように隣人を愛することはなかなかできることではない。それゆえに第一の戒めが大切になるのである。「神を愛する」とは「我々を愛してくださる神の御心をまず知り、まず聞く」ことである。その愛の中に生かされていなければ、我々は神と人を愛することができない。「礼拝する」とは「神の御言葉を聞き、神の御心を知る」ことである。愛してくださる神を知り、主イエスを通して神の愛を喜んで受けて行くことこそ、第一の戒めで求められている姿である。
主イエスの言葉を聞き、律法学者は「先生、おっしゃるとおりです」(32節)と言い、その教えを復唱した。すると主イエスは「あなたは、神の国から遠くない」(34節)と言われた。神が人間に「愛している」と呼び掛けてくださり、人間がその愛を受け止めつつ応答して生きる場所が「神の国」である。また、神との関係の中に生かされ神の愛の中で生きる者同士が喜んで神を礼拝する場所が「神の国」である。そういう意味で、「教会」は「礼拝」をささげ、神の愛をいつも新たに全身全霊で頂く共同体としての「神の国」であると言えよう。完全に成就される「神の国」は将来与えられると同時に、今も与えられている。全ての人はそこから遠くない。主イエスが「神の国は近づいた」(マルコ1:15)というメッセージを携えて来てくださったからである。御言葉を通して神を神として尊び、神の愛を精一杯受けていくところに「神の国」がある。我々はそこに招かれている。