マルコによる福音書11:1-11
福音書記者マルコは11章から「主イエスの死」までの一週間を語り始める。マルコがとりわけ焦点を絞って語る「主イエスの受難」の記事は、「マルコによる福音書」全体の三分の一を超える分量となっている。
主イエスと弟子たちの一行はいよいよエルサレムに近づき、「ベトファゲとベタニアにさしかかった」(1節)。ユダヤ全土から過越祭のためにエルサレムへ赴く人々は、これらの村に立ち寄って祭のために身を清め整えたのである。
その時主イエスは弟子たちに「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい」(2節)と命じられた。なぜ、主イエスは「向こうの村」に「子ろば」がつないであることを知っておられたのであろうか。一つの解釈として、「主イエスがあらかじめ子ろばをご自身で用意しておられた」という見方ができる。それはご自身がどのような目的のためにエルサレムに入るのか、弟子たちや人々に示すためである。同じことが「最後の晩餐」の会場においても言える(マルコ14:12~)。主イエスはゼカリヤの預言(ゼカリヤ9:9-10)で語られているような「メシア」としてご自身を示そうとされた。通常、「王」は立派な「軍馬」にまたがり軍隊を従え戦利品を携えて華々しく都に入城する。しかし「ろば」は「柔和」を象徴する動物である。そして当時の社会においては「荷物の運搬」など日常の様々な雑用に使われた動物である。聖書が語る「柔和」とは単なる「優しさ」ではなく、「重荷を背負う」という意味を持つ。主イエスは「子ろば」に乗ることにより、「苦難を負う」「重荷に耐える」メシアとしてご自身を示そうとされた。イザヤ書53章においても語られているように、我々の救い主は「苦難の僕」として我々の重荷と罪をになされる方である。「十字架」において我々の「罪」はあらわにされた。その「罪」とは、神から選ばれ愛されているにもかかわらず神に背き続ける「罪」、神の子さえも殺すことによって「自分が神のようになりたい」という「罪」である。主イエスの「十字架」はその「罪」をあらわにする。しかし、主イエスはその「罪」を示しつつその「罪」を負い、赦しと和解の手を差し伸べられる救い主である。主イエスの「十字架」には神の赦しと愛があらわに示されているのである。
しかしユダヤの民衆は主イエスをそのような「メシア」としては理解していなかった。いよいよ主イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入ろうとされると、「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉のついた枝を切って来て道に敷いた」(8節)。この行為は「王を迎える」際の所作である(cf., 列王記下9:13)。そして口々に「ホサナ」(9、10節)と叫んだ。これは本来「神よ救い給え」という意味の言葉であるが、ここでは単純に「王さまが来られた、万歳」というニュアンスが強い。他国に支配され続けたユダヤの民衆は、神が「ダビデの王国を復興するメシアを送ってくださる」という期待を持ち続けていた。実際に「自称メシア」が登場してはローマの軍隊に戦いを挑み、鎮圧されるということが繰り返し行われている。それでもなお民衆は「メシア」を待ち続けていた。
しかし主イエスはご自身を「地上の王」ではなく「神の国を指し示す王」として語り続け、またご自身が「神の国を成就する救い主」であることを示し続けられた。神が我々の「罪」を引き受け、ご自身の苦しみによってその「罪」を赦すという和解の手を差し伸べられる。そのような重荷を担われる主イエスを通して我々は神の愛を知り、神との関係を回復して頂く。主イエスのわざは我々に「神の国」をもたらす。そのような「メシア」として、主イエスは来られたのである。
「信仰を持つ」とは「物事を複眼的に見ることができるようになる」ことである。我々は「信仰」によって地上のさまをしっかりと見なければならない。「片手に聖書、片手に新聞」という有名な言葉があるが(カール・バルト)、キリスト者は社会の動きを注視しつつ、それだけに囚われてはいない。主イエスを通してあらわされた神の愛を信じ、目には見えない神の支配に信頼する。「見えないものに注ぐ目」が「信仰の目」である。