ヨハネによる福音書3:16-21
16節の聖句は、聖書の中で最も有名であると言っても過言ではない。『岩波訳聖書』ではこの箇所を「つまり」という語から始めている。「つまり」(「なぜならば」とも訳せる語)という語を用いることにより、これらの箇所が前の部分(14-15節)と関連づけて見るべき箇所であることが明確にされている。14節は民数記21:4-9の内容を指す。「青銅の蛇」はイスラエルを死から守った。それと同様に、十字架上に挙げられた主イエスも、信じる者に永遠の命を与えるというのである。著者は、復活し昇天された主イエスが今も生きておられるという理解の中でこの福音書を記した。この世が創造される前から既におられ、この世に人として生き、今は神の御許におられ、聖霊によって今も生きて教会で働いておられる、一連の主イエスが混在した形で語られているところにこの福音書の特徴がある。
神は「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(16節)。神は「世」を、すなわちこの「罪ある世界」を愛してくださった。そして「律法を守ること」によってではなく「神の独り子である主イエスを信じる」ことによって「世」にある人々に「永遠の命」を与えるために、主イエスを世に送ってくださったのである。「永遠の命」(16節)は「人間の命」と関係している(『新共同訳聖書』巻末付録「用語解説」を参照のこと)。主イエスを信じる者はこの「永遠の命」へと招かれる。それは、律法を守れない者を裁き、天国から締め出していた当時のユダヤ教に対する、「疑問」よりも激しい「拒否」としてのメッセージであった。神の「独り子」(16節)である主イエスは、十字架につけられ天に挙げられた。それは人間が神の子とされるための、神の愛による出来事であった。「永遠の命」とは「神の国」「天国」とほぼ同義語である(土戸清)。それは「死後の命」ではない。主イエスを信じることによって我々はこの「永遠の命」に生かされ、「神の国へ招かれた者」として生きることができるのである。
17節において「世を裁くためではなく」という部分が先に置かれていることは注目に値する。それにより「主イエスが来られたのは全ての人が救われるためなのだ」という神の意志が強く表現されているからである。これもまた、神を「裁く神」「罰する神」と理解していた当時のユダヤ教への大いなる「否」であった。「裁き」という事柄は当時のユダヤ教における大きな関心事であった(cf., ローマ2:1-)。ある人が他者を「裁く」時、その人は自ら神の立場に立っていることになる。ここに「神を神とせず、神から遠く離れて、自ら神になり代わる」という人間の罪の根源がある。
しかし、「神の裁き」そのものがなくなったわけではない。「裁き」もまた、死後の事柄ではない。「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(18節)。この「裁かれている」という語は受動態の完了形である。つまり、主イエスを信じ受け入れないことそれ自体が、既に「裁きを受けている」状態だというのである。ここでは「裁き」が将来の事柄ではなく、「今」「終末的現在」の事柄であると理解されている。パウロは神を信ぜず神に逆らう者たちが、自らの欲望に従って倫理的・道徳的に堕落していくに「任せられた」神について語っている(ローマ1:24)。神に「任せられ」、勝手なことをしている状態それ自体が「裁き」なのである。更に最終的に、「裁き」は主イエスの再臨の時、より明確に示される。
主イエスを信じる信仰によって今「永遠の命」を与えられた者たちは、「終末」を「先取り」して生きることができる。福音に押し出されて起こる様々な出来事の中には喜びがあり、平安がある。それはまさに今、生活の只中で頂くことのできる「神の国」における喜びの「先取り」なのである。
続く19節で主イエスは「光」として紹介されている。「ヨハネによる福音書」の冒頭においても「光」と「闇」の対比が印象的に描かれているが(1:4-5)、「罪」は「闇」を好む。「光」を遮ることにより、「闇」はなお残る。救いは全ての人に与えられているが、それを遮ることにより「闇」が残る。それが「裁き」である。
バルトは説教の中で、第二次世界大戦終結から29年目にしてフィリピンのルバング島から帰還を果たした小野田寛郎氏の出来事になぞらえてこの事情を語ったことがある。彼は戦争が終わり平和がもたらされたにもかかわらず、29年間戦闘を継続した。戦争の終わりがいくら告げられても、彼はそれを「敵の戦略」として聞き入れず、信じなかった。そのために彼は29年間なお戦争の中にいたのである。同じように、主イエスによって神との関係が修復され、永遠の命に生きることができるという報せをもたらされても、「世」はそれを認めず、「民」はそれを受け入れなかった。そして「闇」の中で「罪」の思いが具体的なものとなっていく。その状態が「裁き」なのである。
しかし「真理を行う者は光の方に来る」(21節)。「真理を行う」とは、主イエスに全てを明け渡し、主イエスの光の中で主イエスに従って生きることである。そのように生きることができるよう、教会で信仰を頂くのは素晴らしいことである。その際、「主イエスならどうするだろうか」という視点で行動することが大切である。その時、小さなことでも「神の出来事」が起こされていき、それを見る者は喜びに満たされるようにされるのである。