斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆今回の箇所を理解するための前提
今回の話の直前の箇所にはマタイ、マルコ、ルカによる福音書が共通して伝えている、中風という病を煩っていた人を癒す話が語られています。ルカの語る話の流れでは、17節で「ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。」と説明しています。つまり、にわかに時の人となりつつあるイエスという人物について自分たちの目で確認するために、方々から律法学者たちが主イエスのところに詰めかけていたと考えられます。その際に、噂通りの癒やしの奇跡が起きるのを目撃した彼らでしたが、問題は奇跡的な癒やしが行われたことではなく、主イエスが「あなたの罪は赦された」と発言したことにありました。これに対して21節で彼らが語っているように「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」という問題意識が彼らの間に広まります。この出来事は、少なからず彼らに、主イエスに対するメシアとしての期待よりも、ユダヤ教を脅かす危険人物としての危機感を抱かせたものと考えられます。このような流れで今回の話へとつながります。
◆黙想のポイント
律法学者たちは、主イエスこそ聖書が預言し、彼らが待ち続けていたメシア、キリストであると確信することができませんでした。妨げていたものとは一体何でしょうか。そこに存在する誤った聖書理解とその実践こそ、自分の正義の基準に合わない者を受け入れられず、裁き、距離を置かせてしまう根本原因になり得るとしたら、誰もが律法学者たちと同じ課題を抱えていると言うことができます。聖書的知識も豊富で、社会的にも人望があるような人々でも陥ってしまうという、誤った聖書理解と誤った聖書の教えの実践の原因はどこにあるのか、今回のルカによる福音書シリーズを通して問われていきたいと思います。
◆レビを弟子にする
5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
>>>今回の話は、直前の中風の人を癒す話同様に、共観福音書(マタイ+マルコ+ルカの三福音書)が共通して取り上げている話です(マタイによる福音書9章9-13節、マルコによる福音書2章13-17節)。場面設定としては、カファルナウムで中風の人を癒やした後の話です。ここで登場する十二弟子のひとりとなるレビについて、マタイによる福音書では著者本人のことですが「マタイ」、マルコによる福音書では「アルファイの子レビ」、そしてルカは単に「レビ」と書いています。また、ルカは他の福音書には書かれていない言葉、「何もかも捨てて」という言葉を加えて、レビが主イエスに従った時の覚悟を強調しています。ただし、ここで言う「何もかも主イエスのために捨てる」という意味は、仕事を辞職し、かつ全財産を人々に無償で寄付するというようなことではなく、自分の人生と全財産を主イエスの宣教のために献げる生き方に「方針転換」をすることを意味しています。その具体的な行動の表れが、次に展開する彼の自宅での盛大な宴会の話です。しかし、この出来事がさらに律法学者たちに、主イエスに対する疑念を深めさせることになってしまいます。
5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
>>>律法には、神の律法の教えに反する生き方をしている人とは距離を置くことを薦めています。律法学者たちにとって、いつの間にかユダヤ人以外の人、礼拝に出席しない人や出席できない羊飼いのような職業の人、障害を負っている人、また圧制者であるローマ帝国の手先の役割を果たす徴税人とは、積極的に交際するべきではないとの認識があったものと思われます。従って、彼らと一定の距離を置くことは当然のことだったのでしょう。しかし、主イエスがこれとは正反対の生き方を実践していたのに、少なからず戸惑ったものと考えられます。なお、マルコによる福音書では、ここで飲食している人々はレビほどの献身の意志はなかったとしても、主イエスに従うようになった人々として報告しています。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」(マルコによる福音書2章15節)
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
>>>この箇所の最後の部分で、他の福音書記者が「罪人を招くためである。」としているのに対し、ルカは「罪人を招いて悔い改めさせるためである」と語り、「悔い改め」を強調しています。つまり、罪人と主イエスが積極的に交わりを持つ目的は、彼らを「悔い改め」に導くことが目的であることが示されています。主イエスが説く「悔い改め」とはどのような内容を指すのでしょうか。福音書の一大テーマがここに提示されています。律法学者たち、そして現代に生きる私たちにも問われる主イエスの言葉です。聖書の「悔い改め」という言葉には、聖書教育誌が今週の題名に用いている「方向転換」という意味があります。聖書が罪人に悔い改めるように招いている具体的な内容とは、どのようなことを指すのでしょうか。今回の律法学者たちの聖書理解において誤りがあったように、「罪人」についての理解や「悔い改め」についての理解について、改めて問われているのではないでしょうか。この機会に理解を深めていきましょう。