西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題…「主なる神が用いられる器」
◆今月の概観
今月は士師記に登場する二人の士師を中心に学びます。前半の2回はアンモン人との戦さで主に用いられるエフタ、後半3回はペリシテ人との戦さで用いられるサムソンです。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆地図で今回の箇所の大まかな地理を確認しましょう。聖書の巻末にある地図「3 カナンへの定住」をご参照下さい。塩の海(死海)の北岸から西の地中海沿岸方面にあるのが、イスラエルの十二部族の一つダン族の領地です。そのすぐ南が当時、ペリシテ人の領土になっていたことが分かります。続いて、地図を次の時代と比較しながら見比べて下さい。絶えずペリシテ人の領土が変動していることが分かります。現代でも争いが絶えない、因縁の関係にあるペリシテ人(=パレスチナ)にまつわる話の一つが、サムソンの物語です。サムソンはツォルア出身であったと2節にあります。ダンとペリシテの国境沿いで、地図3でティムナと書かれている場所の東隣に、ツォルアがありました(「新共同訳聖書」準拠聖書地図バイブル・アトラス参照)。
◆黙想のポイント
今回の箇所ではサムソンの父マノアよりも、名前が明らかにされないサムソンの母の方に、御使いは終始寄り添い、神のご計画を伝え、自分が果たすべき役割などの指示を与えています。なぜ、サムソンの父ではなく、母に重きが置かれている内容になっているのか黙想しましょう。そこには「主なる神が用いられる器」の条件が垣間見えてきます。理解を深めるために、聖書教育誌では飛ばしている6—18節も取り上げることにします。
◆サムソン
13:1 イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行ったので、主は彼らを四十年間、ペリシテ人の手に渡された。13:2 その名をマノアという一人の男がいた。彼はダンの氏族に属し、ツォルアの出身であった。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがなかった。
>>>サムソンが生まれる前の時代的な背景と、両親の置かれていた状況について語られます。イスラエルが主の目に悪とされることを行っていたことが、神の裁きの原因でした。モーセによってエジプトから導き出されたイスラエルの民が、神の御心に背いたために四十年間命を脅かされながら荒野をさ迷い続ける中で、神に寄り頼み、信頼し続ける信仰を養うための試練に直面したように、この時代のイスラエルも四十年間隣国のペリシテ人たちに命を脅かされることになります。また、サムソンの母が不妊の体だったために、子どもを授かることができなかったことが語られています。神の最善の時が熟すのを待たなければならないサムソンの両親でした。ただし、神の壮大なご計画を知らない当時のサムソンの両親は、長年不妊だったことを悩み、神に祈り続けていたことでしょう。
サムソンの誕生話は、いくつかの点でバプテスマのヨハネの誕生話を連想させます。不妊の母、御使いによる男児誕生のみ告げ、母の胎内にいる時から神に聖別されていたこと、将来神に用いられると予め預言されていたことなどです。そして両者の最後も、壮絶な死を遂げていったという類似性があります。
13:3 主の御使いが彼女に現れて言った。「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。13:4 今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ。13:5 あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」
>>>主の御使いは、彼女が不妊であること、子を産んだことがないことを言い当てます。彼女のことを、主なる神はよく知っていて下さっていることが表現されています。その上で、生まれてくる子どもの働きの重要さ故に、妊娠中からナジル人に求められる聖別された生き方を、母親にも指示されます。ナジル人とは「聖別された者」という意味で、民数記6章1-21節に詳しい請願の規定があります。特に1-5節は、今回の箇所で御使いが語っている内容と関連しています。ナジル人には、生涯貫く請願と一時的な請願とがあったようです。サムソンは生涯のナジル人、サムソンの母は一時的なナジル人の例だと考えられます。
<参考箇所6₋18節>
13:6 女は夫のもとに来て言った。「神の人がわたしのところにおいでになりました。姿は神の御使いのようで、非常に恐ろしく、どこからおいでになったのかと尋ねることもできず、その方も名前を明かされませんでした。 13:7 ただその方は、わたしが身ごもって男の子を産むことになっており、その子は胎内にいるときから死ぬ日までナジル人として神にささげられているので、わたしにぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないようにとおっしゃいました。」 13:8 そこでマノアは、主に向かってこう祈った。「わたしの主よ。お願いいたします。お遣わしになった神の人をもう一度わたしたちのところに来させ、生まれて来る子をどうすればよいのか教えてください。」 13:9 神はマノアの声をお聞き入れになり、神の御使いが、再びその妻のところに現れた。彼女は畑に座っていて、夫マノアは一緒にいなかった。
>>>マノアが神の人にもう一度会いたいと祈ったのに対し、なぜか御使いは彼の妻のところに再び現れます。それはなぜなのか、考えさせます。マノアではなく、妻の方に御使いの関心が置かれていることが伺えます。
13:10 妻は急いで夫に知らせようとして走り、「この間わたしのところにおいでになった方が、またお見えになっています」と言った。 13:11 マノアは立ち上がって妻について行き、その人のところに来て言った。「この女に話しかけたのはあなたですか。」その人は、「そうです」と答えた。 13:12 マノアが、「あなたのお言葉のとおりになるのでしたら、その子のためになすべき決まりとは何でしょうか」と尋ねると、 13:13 主の御使いはマノアに答えた。「わたしがこの女に言ったことをすべて守りなさい。 13:14 彼女はぶどう酒を作るぶどうの木からできるものは一切食べてはならず、ぶどう酒や強い飲み物も飲んではならない。また汚れた物を一切食べてはならない。わたしが彼女に戒めたことは、すべて守らなければならない。」
>>>マノアの質問に対して御使いは、あなたの妻に先に告げたとおりにすればいいという内容の返事をします。どこか、よそよそしさを感じる対応です。
13:15 マノアは主の御使いに言った。「あなたをお引き止めしてもよいでしょうか。子山羊をごちそうさせてください。」 13:16 主の御使いはマノアに答えた。「あなたが引き止めても、わたしはあなたの食べ物を食べない。もし焼き尽くす献げ物をささげたいなら、主にささげなさい。」マノアは、その人が主の御使いであることを知らなかった。 13:17 そこでマノアは主の御使いに、「お名前は何とおっしゃいますか。お言葉のとおりになりましたなら、あなたをおもてなししたいのです」と言った。
>>>マノアは繰り返し、御使いの言った通りのことが実現したあかつきには主の使いをおもてなししたい、と言いました。今すぐに、御使いが約束して下さったことに感謝しておもてなしがしたい、というのとは違いました。このような信仰は、創世記28章で、かつてヤコブがおじのラバンのところに行くために旅をした際に、神が夢に現れてヤコブの将来に関わる預言を話されたのに対し、21-22節でヤコブが「無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」と語り、すべて神が約束された通りになった時になって初めて、感謝を捧げることを約束している箇所と似ています。これらは、聖書全体が私たちに指示している信仰の在り方とは違いました。見ないで信じること、事が起きる前に信じて従う信仰がクリスチャンに求められているからです。そのような意味では、むしろマノアの妻が今回の箇所で示している信仰こそが、神に認められているということができます。
13:18 主の御使いは、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」と答えた。
>>>なぜ御使いは「なぜわたしの名を尋ねるのか」と言ったのでしょうか。また、自分の名前を「それは不思議」と伝えたのでしょうか。名前を聞くということは、相手とさらに関係を深めたい等の理由が考えられますが、特にイスラエルの社会では、名前を聞けばある程度その人物の国籍や出身部族、そして名前の意味から人柄が分かる仕組みになっていました。マノアはそれを探ろうとしたのかも知れません。これに対し、御使いは「私のことを本当の意味では神の使いだと信じてもいないのに、なぜ私に関心があるふりをするのか」と言わんばかりの返事をします。それでも、彼らに自分がどのような存在として神に仕えているのかを考えさせる名前を口にしました。私の名前は「それは不思議」。言い換えれば、現在の彼らには簡単には理解できない神の御業を、彼らにあらかじめ預言するために遣わされた存在だということ。そして、彼らがなおも忍耐強く、神の御業の実現のために長い時間をかけて待つ必要があることが示唆されているのではないでしょうか。
13:19 マノアは子山羊と穀物の献げ物を携え、岩の上に上って主、不思議なことをなさる方にささげようとした。マノアとその妻は見ていた。13:20 すると、祭壇から炎が天に上るとき、主の御使いも、その祭壇の炎と共に上って行った。マノアとその妻はそれを見て、ひれ伏して顔を地につけた。13:21 主の御使いは再びマノアとその妻に現れることがなかった。マノアはそのとき、この方が主の御使いであったことを知った。
>>>ようやく神の人が人間ではなく、神から遣わされた御使いであることを、この超自然的な出来事を通して彼らが理解したことが語られます。
13:22 マノアは妻に、「わたしたちは神を見てしまったから、死なねばなるまい」と言った。13:23 だが妻は、「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです」と答えた。13:24 この女は男の子を産み、その名をサムソンと名付けた。子は成長し、主はその子を祝福された。13:25 主の霊が彼を奮い立たせ始めたのは、彼がツォルアとエシュタオルの間にあるマハネ・ダンにいたときのことであった。
>>>マノアの迷信的な理解に対して、妻の理解は御使いの言葉をより理解し、信じていることが伺える会話です。ここに御使いがなぜ彼女に現れ、神の御心を託したのかが現れているのではないでしょうか。彼らは生まれてきた子どもにサムソン、「太陽」という意味の名前を付けます。彼らにとってサムソンは、人生における神から与えられた、実際に見える形の光輝く希望であったに違いありません。
◆話し合いのポイント
- 聖書教育誌の「話し合いのポイント」および少年少女科の「活動」などを参考にして下さい。
- 青年成人科の「話し合いのポイント」や少年少女科の「おはなし」少年少女科のコラムも考えさせられます。