西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題…「キリストの犠牲の精神」
◆今回の箇所の背景
今回の参照箇所、15章12-13節でパウロが述べている、
「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。」
という言葉から、コリントの教会には死者の復活を否定する信徒がいたことが伺えます。
このような信仰理解をしている一部の信徒がいた背景には、ファリサイ派の人々と張り合っていた、サドカイ派の人々の影響があった可能性もあります。使徒言行録23章8節では両派が正反対の主張をしています。
「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。」
主イエスもサドカイ派の人々と復活論争をしたことが、マタイによる福音書22章29-30節に記されています。
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
この御言葉から、主イエスは復活も天使も認めていることが確認できます。
パウロも15章全体を反論に当てています。そして、後半である今回の箇所で、復活について理解を深めるためにキリストの再臨信仰について説明しています。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
キリストの再臨はどのように起きるとパウロは語っているのか黙想しましょう。
15:50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
>>>この箇所の説明では、再臨の時に既に死んでいる信者とこの世に生存している信者との違いが、必ずしも明確ではありませんが、主イエスの元へ一瞬にして(52節)呼び集められることが預言されています。しかも、この時に主イエスの元に集められるクリスチャンは、瞬時に今までとは違う死なない体に変えられると説明しています。
主イエスも再臨について、マタイによる福音書24章30-31節で、ラッパの音について言及しながら次のように説明しています。
「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
また、続く24章36-44節では次のように語っています。
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
再臨の時には、普通の生活を営んでいる最中に、突如として選ばれた者たちが主イエスの元へ連れ去られると述べ、再臨の正確な時期は信者にも隠されているのだから、いつ再臨が起きてもいいように、常に備えて生きるように薦めています。
また、テサロニケの信徒への手紙4章15-17節で、既に死んだ信者と地上にいる信者が、再臨の時にどうなるかをより明確にしています。
「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」
ここでパウロが「復活」という言葉を用いていることに注目しましょう。聖書には、キリストが雲に乗って戻ってこられる再臨の時に、死んだ人々が復活するという理解があります。ただし、これ以外にも聖書は、別の状況での復活と再臨があることについて教えていますが、今回は取り上げません。
15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
>>>結論として、パウロは復活はあると主張しています。そして、キリストが再臨される時に復活が起きると説明しています。一方で、それがいつになるのか分からないので、いつ起きてもいいように希望を持ちながら備えているように励ましています。
◆話し合いのポイント
・聖書教育誌の「話し合いのポイント」および少年少女科の「活動」を参考にして下さい。