西川口キリスト教会 斎藤信一郎 牧師
総合テーマ 「神の人格と意志」
◆前回からの流れ
神から与えられていた命に関わる大切な命令を破り、死ぬ存在になってしまったアダムとエバと彼らを誘惑した蛇に神の裁きが宣告されます。アダムとエバに対しては憐れみに富む裁きが下されます。それは神の痛みと犠牲を伴うものでした。そのことを私たちは見逃すべきではなく、また軽く見るべきでもありません。それではその後のアダムとエバはどう生きたのでしょうか。少しは、神への正しい信仰が取り戻されているでしょうか。
黙想のポイント
・今回の聖書範囲にも多くの重要なポイントがありますが、特に21節が重要です。この個所の理解を特に深めましょう。
◆今回の箇所…
3:20 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
>>>これまで見て来たように、アダムは妻を通して命について考えさせられて来ました。そこでアダムは彼女にふさわしい名を「命」という意味の「エバ」と決めます。アダムはエバによって命を脅かされました。また多くの命がエバによって危機にさらされました。しかし、一方ではエバを通して命の尊さ、素晴らしさを知ったアダムでした。さらに、エバはこれから命がけで子どもを出産することになります。このように様々な出来事を通して、アダムとエバは命について考えさせられていきます。
そして次の節にさりげなく語られている神の行動こそ、命についてアダムたちが最も深く考えさせられた出来事だったに違いありません。
3:21 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
>>>ここで神自ら彼らのために衣を作ったことが語られていますが、それは何故でしょうか。理由は語られず、読者の想像にまかされます。憐れみ深い神ですから、いちじくの葉で便宜的に作った一時しのぎの服ではかわいそうだと思ったのでしょうか。そもそもアダムたちが自分達の命を軽んじてしまったのは何故でしょうか。理由の一つとして、彼らは死という現実をそれまでに体験したことがなかったために、命のはかなさも、尊厳も実感として理解できていなかったと考えられます。聖書の物語の前提では、アダムたちが罪を犯すまでは死は存在しませんでした。従って、善悪を知る木の実を食べると死ぬと言われても、死がどのようなものか知らなかった彼らには、神の警告を十分に理解できなかったと考えられるのです。そこで生きた教訓を与えるために、神はあえて愛してやまない動物を選んで犠牲にして、彼らに死とはどのようなものなのか示されたと考えられます。
この出来事は、やがてイスラエルが行う神への犠牲を捧げる礼拝行事と深く関わっており、その原点となるのが今回の箇所です。ここで神が作った服と言うのは植物の繊維を編んで作ったものではありませんでした。生きた動物を犠牲にして作った皮の服でした。レビ記の1章を参照すると具体的に分かりますが、人々が犠牲を捧げる時には、犠牲を捧げる本人が自らの手で動物を指定の場所で殺し、皮をはぎ、解体する作業を行う決まりになっています。そうすることによって、命の尊厳について考えさせ、自分の罪のせいで他の生き物が犠牲になってしまうことへの反省など、一連の作業全体が罪を悔い改め、真心を込めて神に礼拝を捧げるための重要な要素になっているのです。
その最初の犠牲の動物を手に掛けて殺し、皮をはぎ、内臓などを取り分け、皮の衣を作る作業をされたのが神だったと聖書は証言しているのです。神ご自身が愛してやまない動物を自らの手で犠牲にすることが、どれほど痛みを伴うものだったでしょうか。しかし、アダムとエバがこれ以上、死と滅びへ向かっていくことを防ぐためには、彼らが死の現実を真正面から見つめなおし、受け入れ、悔い改めるしかなかったということでしょう。神の行動の背後には深い人間への犠牲的な愛があったのです。余りに重く、深い神の犠牲を強いられた行動だったために、聖書は文字では表現できなかったのだと考えられます。
この出来事を目の当たりにしたアダムとエバを想像して見て下さい。深い反省を与えられたことでしょう。また、自分達のせいでこれまで共に生きてきた動物の命が奪われ、その皮の服を身に着けることは、一生涯彼らに自戒の念を呼び覚ましたことでしょう。
従って、この1節は極めて重要な節であり、聖書全体の試金石となる内容なのです。
更にもうひとつ別の角度からこの出来事を考えることができます。この聖書の内容を始めに耳にした民族はほかでもありません。イスラエル民族であり、ユダヤ人たちだったのです。彼らは古くから羊を始め、家畜を飼う習慣を持っていました。そんな彼らですから、現代の私たちと違って、毛皮を作る作業は容易に想像できたことでしょう。その感触も大変さも、神がどのような気持で今回の出来事を行ったのか、説明が不十分であっても、理解できたのではないかと考えられます。
しかし、この短い1節は、イスラエル民族のためだけではありませんでした。全人類の罪のために犠牲の死を遂げられる神の子イエス・キリストの十字架のあがないを指し示す出来事でもあります。神の犠牲がなければ、人類の祖であるアダムとエバが希望を持って生きていくことができなかったように、イエス・キリストの十字架による罪のあがない無しには、人類が滅びから救われる希望もなかったのです。
3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
>>>この節にも重要なテーマが含まれています。
・神は複数いるのか。聖書の神は一神教ではなかったのか。ならば、何故このような表現が登場するのか。
・神は何故、人が命の木の実を食べてしまい、永遠に生きる者になることをおそれているのか。
ということです。
初めの問いに答えると、聖書の神は、途方もなく広大な宇宙すら作られた別次元の存在です。また、聖書は他の宗教に見られるように様々な性格や考え方を持った神々が存在することを否定し、ただ唯一の創造神が存在するのみだと主張しています。それにも関らずここで「我々」とあるのは次の理由が考えられます。一つは三位一体の神である父なる神、子なるキリスト、聖なる霊を指し示すためにこのように書かれたとする説。一つは神および天における天使たちなどの他の永遠に生きる存在を含めて我々と語ったとする説です。もう一つは、古代の文学的な表現として、神に畏敬を表す時に複数形で表現するのが当時の習わしだったとする説などです。
一神教であると同時に三位一体の神であることについて説明することはとても難しいのですが、これを太陽光線で表現することがあります。私たちは太陽光線が地上まで届くことによって、太陽の存在を確認することができます。この役割を担っているのが可視光線です。可視光線は太陽そのものではありませんが、太陽の一部なのです。これは実際に見える形でこの世に来られた神の御子キリストと表現できます。一方で、太陽から地球まで到達する目に見えない紫外線のような太陽光線もあります。これが聖霊と似ています。そしてこれらの太陽光線を通して人類は太陽の存在を確認し、実感し、人類の生存のために必要不可欠な様々な恩恵を受けているのです。決して私たちは太陽を直接触れることも、裸眼で直視することもできないように、神は私たちが直接見ることも、触れることもできない存在だということを間接的に理解させてくれます。
また、第二の疑問についてはどう考えることができるでしょうか。仮に私たちが永遠の命を持つことができるとした場合、一定の条件が整わなければ、だれも永遠に生きたいと思わないことでしょう。つまり、病気がちで、身体能力もほとんど弱くなった状態で永遠に生きたいと思う人はいないわけです。永遠に生きるなら、ベストの状態と環境の中でと考えるはずです。そこで神の視点から見るならば、罪を犯して不完全極まりない状態で、しかも罪の性質を持ち合わせたままの状態で永遠に生きることは人間にとって不幸以外の何物でもないことを神は理解しておられたということです。この後の聖書の記述で明らかになる神のご計画とは、私たちが罪を悔い改め、神に立ち返り、神の御心に生きる人生を全うした暁には、罪から清められ、解放され、新しい霊の体を与えられ、初めのエデンの園のような素晴らしい環境で永遠に神と共に幸福に生きることができるようにして下さることが語られています。
現在、私たちはその世界に行くための準備をして生きるように、神から使命を与えられています。この人生は救い主イエス・キリストと出会い、神についてさらに深い知識を持ち、神の御心に生きる実践訓練を通してさらに成熟し、永遠の命に生きる者としてふさわしい存在になっていくことが期待されています。
その段階に到達していなかったために、アダムとエバは命の木から遠ざけられる必要があったと理解することができます。
あなたは神が与えておられる人生の使命と目的を理解し、現実を受け入れて、神の御心に従って実践する人生を歩んでおられるでしょうか。すべては信じて従うことから始まります。
3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
>>>前節の理由により、アダムたちがエデンの園から追放されたことが語られます。そして、宣告通りにアダムは自分に与えられた人生の使命に励むことになります。
本来ならば、ここで3章が終わってもおかしくありませんが、聖書は最後の1節に至るまで目が離せません。次の節があるかないかで、聖書のメッセージは大きく違ってくるのです。その最後の節を見て行きましょう。
3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
>>>多くのクリスチャンにとって難解だと言われている第3章最後の節ですが、ここには人類の希望と永遠の命に至る道が示されています。この個所が端的に教えていることは、人類にとって最高の生活環境であるエデンの園に戻って行くことができるということです。そのカギを握るのが命の木に「至る道」とその道を両側から支える「ケルビム」と「きらめく剣の炎」という存在です。これが何を指すのか、この箇所には明確な答えはありません。しかし、おおよその見当はつくのです。なぜなら、この謎を解くヒントは聖書の他の箇所に存在するからです。
まず、究極の楽園であり、神との最も親密な交わりが可能なエデンの園に至る道とはほかでもありません。救い主、イエス・キリストを指します。主イエスの有名な言葉を参照すると「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ヨハネ福音書14章6節
ここには主イエスこそ道そのものであること、また、主イエスという道を通らなければ、父なる神のもとにいくことができないことが表現されています。エデンの園に至る道と一致します。
続いて「ケルビム」ですが、これは神の御座近くにいた翼のある天の生き物ですが、十戒が納められていた掟の箱の上に、その像が向かい合うように翼を広げて安置されていました。
「モーセは神と語るために臨在の幕屋に入った。掟の箱の上の贖いの座を覆う一対のケルビムの間から、神が語りかけられる声を聞いた。神はモーセに語りかけられた。」民数記7章89節
このようにケルビムは神の言葉とその権威を守る大切な役割を担う存在でした。
最後に「きらめく剣の炎」とはイスラエルの民がエジプトを脱出した際に彼らの道を誘導し、エジプト軍が追ってきた時には民の最後尾にまわってエジプト軍から彼らを守った炎の雲の柱を連想させます。
出エジプト記13章21節「主は彼らに先だって進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も進行することができた。」
このように炎の雲の柱が進むべき道を民に示し、危険から彼らを守る役割を果たす存在でした。このような働きを聖霊が新約聖書では果たしていることが語られています。従って、このきらめく剣の炎は聖霊を象徴していると考えられます。
これらの三つのものが象徴していることとは、道=キリスト、ケルビム=聖書、きらめく炎の剣=聖霊を指し示すと考えることができます。もちろん、ほかの解釈も可能だということをご理解下さい。
重要なのはこの個所が聖書全体が天の御国に戻るために不可欠だと主張しているイエス・キリストと聖霊の助けと神の御言葉である聖書の三つの存在を暗示させながら、私たちに救われる希望と方法を指し示していることです。
◆カインとアベル
4:1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
>>>今回の聖書教育誌の最後の節は4章1節まで続きます。ここにも重要な信仰理解が表現されています。「アダムは妻エバを知った」という表現はさりげなく夫婦としての関係を持ったことを語っており、その結果エバが身ごもって最初の子どもカインが生まれたことが語られています。その際にエバが口にした内容が重要なのです。彼女は夫と性関係を持って子どもを産んだのです。現代でも子どもを身ごもった場合に、「子どもが出来た」とか「夫との間に子どもが出来た」と聞くことがありますが、どれだけの人が「私は神様から子どもを授かった」と言うことができるでしょうか。エバは自分の子どもの命がどこから来ているのかを理解していたことが分かります。神様です。このことから、エバは様々な経験を通して以前よりも生活の中に神との関わりを見出す人に成長していることがわかるのです。
分かち合いのポイント
・創世記の冒頭の数章は、聖書全体に影響を与える非常に内容密度が濃い個所です。そのため、この紙面では通常よりも多くの言葉を要しました。みなさんはどこに目がとまったでしょうか。自由に分かち合って下さい。