総合テーマ 主イエスと共に祈る共同体
◆前回からのあらすじ…
主の晩餐の後に続くゲッセマネの園における話が今回の箇所です。
黙想のポイント
*主イエスの心中をじっくりと黙想しましょう。
◆ゲッセマネで祈る
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
>>>ここにはいくつもの疑問があります。なぜ、ペテロとゼベダイの子二人だけを特別に身近に置いたのでしょうか。なぜ、死ぬばかりに悲しいのでしょうか。その原因の最大の理由は何だったのでしょうか。どうして、「ここを離れず」と言ったのでしょうか。どうして共に目を覚ましているようにと要請されたのでしょうか。
26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
>>>結局、主イエスはさらにもう少しだけ三人と距離をおいて祈りに入りました。それでもその距離は主イエスの祈りが聞こえる程度の近さだったことでしょう。そうでなければ、聖書に主イエスの祈りは記録されなかった事でしょう。逆に言えば、主イエスは彼らを証人に立てて、ゲッセマネの園での祈りを後世に伝えたかったのではないかと考えられます。イスラエルでは、2人から3人の証人がいなければ、その正当性が認められないことになっています。主イエスはその原則に忠実だったのでしょう。最初の弟子たちはペテロとその兄弟アンデレとヤコブとその兄弟ヨハネでした。その4人のうち3人が選ばれ、その後のイエスの生涯における様々な重要な出来事の証人として用いられたと考えられます。
26:40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
>>>クリスチャンの祈りは、自発的にいつでもどこでもできる祈りではありますが、主イエスが共に祈ってほしいと願う、執り成しの祈りが存在することをこの箇所は強調しています。この祈りの大切さを私たちはどれだけ普段から認識し、実践しているでしょうか。考えさせられます。
また、このような主イエスの祈りの要請を妨害する力も働くことも語られています。敵は私たちの肉体の弱さに付け込んで、祈りの要請を軽く考え、主イエスと祈りを合わせることをしないように普段から私たちに働きかけています。私たちはそのことをどれだけ理解し、警戒し、目を覚ましているでしょうか。
26:42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
26:43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
26:44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
26:45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
26:46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
>>>ユダを見て、「見よ、わたしを裏切る者が来た」と言われる主イエスの心境はいかほどだったことでしょうか。一方で、弟子たちは主イエスから死ぬほどに悲しいと切実に現状を訴えられていたにも関わらず、また共に心を合わせて祈って欲しいと頼まれたにも関わらず、期待を裏切ってしまいます。それでも主イエスは彼らを「私を裏切る者」とは言いませんでした。他の弟子たちとユダとの違いはどこにあるのでしょうか。少なくとも、主イエスは三回弟子たちに受難予告をして来られました。しかも、十字架に付けられて殉教の死を遂げることと、復活されることを預言されていました。もし、ユダが主イエスを正しく受け止めていたのであれば、決して自殺すべきではありませんでした。しかし、ユダは自分の裏切り行為によって、主イエスを願ってもいない裁判と拷問にかけてしまったことを後悔し、絶望しました。そして主イエスの御言葉への信頼と希望は最後まで持てなかったのでしょう。そこに弟子たちとの明確な違いがあったのではないでしょうか。ゲッセマネの園での弟子たちはまだまだ信仰的には未熟でした。しかし、弟子たちの将来に期待し、信じ続けて下さった主イエスに励まされます。主イエスはペテロたちを何度も起こしながら、一緒に祈るように招き続けて下さいました。主イエスは現代に生きる私たちにも同じ温かい眼差しを持って、一緒に執り成しの祈りと宣教の業に参加するように招いて下さっています。
分かち合いのポイント
・私たちがペテロたちと同じゲッセマネの園にいたとしたら、主イエスの祈りを聞きながらどう祈るべきだったのでしょうか。そして、それは現代に生きる私たちにどう祈ることを要請しているでしょうか。分かち合いましょう。