総合テーマ 立場を弁える幸い
◆前回からのあらすじ…
離縁についての問答、子どもを祝福するイエス、金持ちの青年との対話、ぶどう園のたとえ、三度目の受難予告、ヤコブとヨハネとその母との対話、二人の盲人の癒し、そして今回の箇所につながります。ついに主イエスの一行はエルサレムに到着します。
黙想のポイント
*いよいよエルサレムに近づいて来ました。この箇所における主イエスと群衆の心境のギャップを黙想しましょう。
◆エルサレムに迎えられる
21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
>>>ベトファゲはベタニア村とエルサレムの間にある村でした。
21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
>>>これは、ゼカリヤ書9章9節にある御言葉の引用です。
9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。
9:10 わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。
>>>通常、王は軍馬に引かれた戦車に乗ります。しかし、主イエスは預言の通りにろばに乗って、しかも子ろばに乗ります。ろばは柔和の象徴であったり、聖書教育誌にも言及されているように「侮辱や迫害にも耐え忍ぶ」忍耐強さを備えた生き物と考えられています。主イエスの戦いはこの世的な武力と革命によってもたらされるものではありませんでした。平和の福音によって、弱さと敗北と従順を通して実現するものでした。ゼカリヤ書の預言は、そんな主イエスの御業を預言するものでした。
21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
>>>この箇所は詩編118編26節に出て来る御言葉です。
118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
118:23 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
118:25 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。
*118:26 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
118:27 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。
118:28 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。
118:29 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
>>>22節のよく知られた聖書箇所も直前に登場します。主イエスがエルサレムに入場したのは、週の初めの日曜日でした。この時すでに5日後の十字架を見据え、一週間後の日曜日に復活することを見据えていた主イエスの心境はどのようなものだったのでしょうか。主イエスを礼拝の都にお迎えした群衆とは大きく違っていたことを想わされます。私たち日曜日にどのような信仰姿勢で主イエスを礼拝にお招きしているのか考えさせられます。
21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
>>>主イエスはガリラヤからついて来たであろう人々の歓喜の中でエルサレムに迎え入れられました。しかし一方で、この出来事はエルサレムの住民の目には、余興のような滑稽なものに見えたことでしょう。本物の王の入場とはあまりにもかけ離れたものだったからです。事前準備や宣伝もなく、また警護や費用もかけない手作り感満載の礼拝の都、エルサレムへの入場でした。
本来、このお方は全世界の王が揃い、準備万端整えて、膝まづいて迎えるべき全人類の王でした。しかし、時代はこの類まれなお方を理解せず、道化師のようにエルサレムに迎え入れるのでした。ここに、痛々しいほどに従順をその身に追ってエルサレムに入場する主イエスの姿を見ます。受難節を迎えた今、深く黙想させられる箇所です。
分かち合いのポイント
・主日礼拝において、私たちは主イエスをどのように意識しながら出席しているでしょうか。互いに分かち合いましょう。本日の箇所から、私たちはどのような態度で礼拝に臨むべきか、そのためにどのように準備を整えることができるか、知恵を出し合いましょう。