2016年9月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 9/18日 列王記下5章1-19a節「神はここにおられる」
総合テーマ 預言者の使命
予備知識…~今回の箇所までの概略
前回4章25~37節) シュネムに、自主的に自宅の一室をリホームし、エリシャの宿として提供してくれていた子どものいない夫婦がいた。その家庭にエリシャの執り成しの祈りで子どもが与えられる。しかし、その子どもの突然の死に対して女性はエリシャに悲しみを訴えに行く。預言者として駆け出しのエリシャ。弟子のゲハジに彼の杖を持たせて子どもの元へ派遣するが、子どもは生き返らない。母親の懇願もあってエリシャ自身も現地に赴き、身を挺して子どもが生き返るように神に祈りながら奮闘した結果、子どもを無事母親の元に返すことができたエリシャであった。
4章38~44節)ギルガルに戻ったエリシャ。その地方を飢饉が襲う。エリシャが預言者仲間のために食料を振る舞う。その際、毒が混じった食事の毒消しを行い、僅かしかなかった食事で大勢を十分なだけ食べさせる奇跡を起こす。主イエスの5つのパンと2匹の魚の奇跡を連想させる話が登場する。
黙想のポイント
・エリシャ、ナアマン将軍、ゲハジのそれぞれの行動の背後にあった信仰と人間的な弱さを黙想しましょう。
列王記下
5:1 アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。
>>>理由は定かではありませんが、アラムの軍司令官(ナアマン将軍)は、主なる神がかつて彼を用いて他国との戦いにおいて勝利を授けた時の勇士であったことが語られています。彼が主に認められていたことが伺えます。
5:2 アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。
5:3 少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
5:4 ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、
5:5 アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」
>>>ナアマン将軍が如何に周りの者たちから尊敬されていたかが伺える場面です。召使も、王様も彼の重い皮膚病からの回復を、心から願っていたことが伝わって来ます。また、ナアマン将軍の妻の召使が、ユダヤ人だったことも神の深いご計画の中にあったと考えることもできます。
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
>>>残念ながら、アラムの王の手紙を受け取ったイスラエルの王は、ことの次第を理解できず、敵意ある手紙と勘違いしてしまいます。ナアマン将軍の家にいたユダヤ人少女が、預言者の名前を正確に覚えていれば、もう少し状況は違っていたかも知れませんが…
5:8 神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
>>>ことの次第を耳にしたエリシャは早速王の元に人を遣わして、自分のところにアラムの将軍を連れて来させるように進言します。その際、エリシャが口にした言葉にも注目しておきましょう。「彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」と言っています。今回の出来事がどのような結果をもたらすことになるのか、神の側の目的が示されます。神の救いのご計画が他の民族にも向いていることが示されている重要な箇所だと言えます。
5:9 ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
5:10 エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
5:11 ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
5:12 イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
>>>ナアマン将軍は人一倍自尊心が高かったことが伺えます。いかにも一国の将軍にありそうな反応を示します。礼儀として、せめて自宅から出てきて彼と面会すべき場面でした。しかし、はるばる遠方の地までやって来たナアマン将軍に対して、エリシャは会おうともせず、使いを通して彼に指示を伝えるだけでした。
5:13 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
5:14 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
>>>賢い家来たちのおかげで、ナアマン将軍は考えを変え、エリシャの言葉に素直に従ったところ、皮膚病は癒されるどころか、以前よりも健康で若々しい皮膚になりました。神の言葉に従う者に求められる信仰姿勢について、考えさせられます。この場面はバプテスマ式に通じるものがあります。福音を信じて水に入ったナアマン将軍が体も信仰も新たにされて水から出てきます。
神の御心に従うには、ただ主を信じて行動に移し、ヨルダン川の水の中に指示通り7回入るだけで良かったのです。神が人類に求めておられる罪の赦しを得させるバプテスマも、ただ信じて行動に移すだけです。しかし、なんと多くの人がナアマン将軍の最初の反応のように、言われた言葉を信じないことでしょうか。それでもナアマン将軍が部下たちの助けを受けて最終的には信じて行動に移したように、教会は世界中の人々を励まし、バプテスマへと導く使命を果たしたいものです。
さらに、ここにはいくつかのテーマがあるように思います。まずはナアマン将軍の側からのテーマですが、どんな場合にも、どんな相手に対しても、謙遜に神の指示に従うことができるかどうかという信仰姿勢です。エリシャの側からのテーマとしては、時には相手よっては十分慎重に対応し、距離をおいて慎重に関わることが賢明な場合があることを示されます。
5:15 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」
>>>ナアマン将軍はここで非常に重要な信仰告白に至っています。はっきりとイスラエルの神、つまり聖書の神だけが、真の神なのだと確信を持った発言です。ひとつの推測としては、ナアマン将軍の家にいたイスラエルの少女の普段の信仰姿勢と会話から、イスラエルの人々は一神教の神を信じていたことを事前に知っていたのでしょう。すべてが神の御手の中で導かれて、今回のナアマン将軍の信仰告白につながったのではないかと考えられます。
5:16 神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。
>>>列王記でしばしば耳にする表現が再び登場します。エリシャの堅い辞退の意志と、このことが信仰に基づく決断だということが表明されています。それは、この出来事はエリシャではなく、主なる神から直接出ていることであり、主なる神ご自身に感謝を献げるようにと言っていると受け止めることもできます。
5:17 ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。
>>>どうしてナアマン将軍はこのような決断に至ったのでしょうか。常日頃から、真実の神と信仰を自分なりに探し求めていたからなのかも知れません。そして、ついに自分が生涯をかけるにふさわしい神との出会いを、この度のことで果たしたと見ることもできます。生涯をキリストの神にかける信仰、これは私たちがバプテスマを受ける時に重視される大切な信仰だと言えます。
5:18 ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」
>>>イスラエルの神のみを今後は信仰して行く一大決心をしたナアマン将軍でしたが、彼には乗り越えなければならない課題がありました。それは、彼がアラムの王の元でこれまで同様に職務を行うためには、王の宗教行事にも参列し、王の介添えをしなければならないということでした。異教社会の中で生きる者の避けられない信仰上の問題に、一石を投じる発言です。
5:19 エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。<以下、省略>
>>>エリシャはこの発言に対して理解を示し、「安心して行きなさい」と声を掛けます。言語では「シャローム」という有名な言葉が用いられています。神の預言者として生きることは責任が伴い、かつ必要以上に傲慢になったり、自慢して活動するようなものではないことが示されます。神の預言者、僕としての態度は特に謙遜と慎重さが求められることが今回の箇所では強調されているのではないでしょうか。エリシャが毅然とした態度で、しかも慎重に深刻な問題を抱えるナアマン将軍に接したからこそ、結果的にナアマン将軍は正しい信仰へと導かれていくことができたと言えます。また、このような信仰にナアマン将軍ひとりの力でたどり着いたのではないことも押さえどころではないでしょうか。イスラエルの少女、アラムの王、エリシャ、家来たちがそれぞれに果たした役割も大きかったと言えます。
分かち合いのポイント
・異教社会に生きる私たちも、ナアマン将軍のように他の宗教との関わりを余儀なくされながら生活しなければならない場面が多々あります。職場で、近所づきあいで、親族の葬儀など。そのような中でクリスチャンとしてどのようにエリシャやナアマン将軍のように対応できるのか、分かち合いましょう。
注)聖書教育誌の話し合いのポイントも是非ご参照下さい。
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