マルコによる福音書8:11−13
「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」(11節)。彼らは「天からのしるし」、すなわち、主イエスが「神のもとから来た神の子であることを示す確実な証拠」を求めたのである。聖書はその求めを「主イエスを試す意図のあるもの」と語る。確かに「主イエスが神の子である」というはっきりとした証拠を我々は目で見たり手で触れたりすることができない。それゆえ、キリスト教会の歴史の中では古来より「イエスは神か、人か」というテーマをめぐる論争が繰り返されてきた。現在でも「キリスト教」を名乗るが「主イエスが神の子である」とはしない団体もある。聖書は「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ20:31)と語るが、聖書を経典としながら「主イエスは神の子である」と信じない「キリスト教会」も出てくるのである。確かに、「主イエスが神の子である」ということは考えてみれば不思議なことである。それを「信じられない」というほうがむしろ理性的であるようにも思えるし、「主イエスが神の子であるならば、証拠を見せてください」という願いを持つことは当然のことなのかもしれない。
このようなファリサイ派の人々の求めを聞き、主イエスは「心の中で深く嘆」かれた(12節)。この「心」とは「霊」とも訳される言葉であるが、「しるしを求められた」ことに対する主イエスの強い拒否が表現されている。「しるしを求める」、すなわち目に見えるものや手で確かめられるものによって「主イエスが神の子である」ことを確かめたいと思う時は、我々の信仰が揺れ動いている時である。真理の確証を得ることができたらどんなにいいだろうかと思わずにいられない時もある。しかし、主イエスはそのような「求め」を拒否される。もし、主イエスがこちらの要求通りに「しるし」を与えたとしても、それで人々が信じるということはないであろう。主イエスはご生涯の中で多くの不思議な「わざ」をあらわされた。しかし、それを見聞きした者全員が主イエスを信じたのではない。ある者は主イエスが「悪霊の力」によって不思議なわざを為していると評価し、別の者は主イエスを「魔術つかい」のように受け止めた。彼らにとって主イエスのなされたわざは「神の子であるしるし」ではなかったのである。人間は「しるし」を与えられたとしても、それで満足することなく、更に「しるし」を求め続ける。なぜなら、「しるし」を求める者には「自分なりの考えの基準」があるからである。「神の子なら、こういうことをするはずだ」「神が存在するなら、事態はこのようになるはずだ」など、まず第一に「自分の考え」が立っているのである。仮に、与えられた「しるし」が自分の判断基準に適合するものなら、「あなたは神の子だ」と満足するかも知れない。しかし、もしそうでなかった場合、いくら「しるし」が示されても、その人は信じることはない。このように「自分の考えのほうが神より上に立っている」状態が人間の「罪」であり、それは誰もが持つものである。自分の「神」観に適合し、納得できるような「神」は、我々を救い生かす本当の「神」ではない。そのような「神」に自分はいずれ失望する。むしろ、本当の「神」はご自身の側からご自身を我々に示される方である。主イエスとの交わりを通して本当の「神」に出会う時、我々の考え方は変えられ、自らの罪がはっきりと示される中で悔い改めに導かれる。
主イエスのなされた「わざ」「いやし」というものは、主イエスがご自身を何者であるかを証明しようとしてなされたものではない。それらは常に、「神の救いと憐れみのみわざのあらわれ」として示されたのである。神の側から与えて下さる「しるし」は、我々に「神の国」「神の憐れみ」を指し示す。神のおられること、神が罪を赦してくださること、主イエスが共にいてくださることを指し示す。我々は「しるし」を通して指し示されたものを、神から与えられる「信仰」の恵みによって受け止める経験をさせられる。「しるし」それ自体のみに目を留めるのではなく、そこにあらわされる神の憐れみ、守り、配慮というみわざを見て、神を賛美し信じて従う者にされていくのである。神がご自身の主権に基づき自由に与えて下さる「しるし」と、人間が要求する「しるし」は、区別されなければならない。
「しるし」は確かに与えられている。例えば、「主の晩餐」も我々に与えられた「しるし」である。我々の罪をご自身の血で贖い、我々を受け入れてくださる主イエスが「ここにおられるのだ」という「しるし」である。「パン」「ぶどう酒」そのものだけを見てもしょうがない。そうではなく、「しるし」が指し示すものを信仰をもって受け入れていくことが大切なのである。「しるし」そのものが「目的」になってしまい、それだけを追い求めるならば、我々は神を知ることができなくなってしまう。
確かに、「信じる」ということは難しい。「信じる」ことを妨げる多くの「つまずき」が存在する。しかし、「つまずきを超えてなお信じる」「自分が考えることとは違うけれども信じる」という信仰が求められている。パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリ12:3)と語った。信仰を頂くとは、この事に尽きる。我々が何事か為したがゆえに救われるのではなく、神が一方的な恵みによって捉えてくださり、聖霊の導きをくださるからこそ、我々は信仰と赦し、救いを頂くことができるようになったのである。同時に、神は人々の救いのために我々を用いようと願っておられる。「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(Ⅰコリ1:21)。それゆえにキリスト者とその群れである教会は、救いの喜びに押し出されて、主イエスを証しし、み言葉を語り続けるのである。