神はイスラエルの民をエジプトから解放し神の示す地へ向かわせるため、モーセを立てられる。モーセに率いられたイスラエルの民は約束の地・カナンへ向かう。シナイ山でモーセは十戒をはじめとする律法を頂き、イスラエルの民はその遵守を誓う。しかし、神への反抗のゆえに彼らは40年の間、荒野をさまようことになる。モーセ自身も、結局約束の地に入ることができなかった。
やがてイスラエルの民はカナンに入り、定住を始める。イスラエルに王はおらず、「士師」と呼ばれるリーダーが様々な事柄を導き、取り仕切った。イスラエルの民は次第に自分たちの王を求めるようになる。神はそれを聞き入れられなかったが、やがて、王を与えられる。最初の王がサウルであり、ダビデ、ソロモンの世はイスラエル王国の最盛期であった。
その後イスラエル王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、それぞれ滅んでゆく。イスラエルの民はバビロニアに移され捕囚の民となる(バビロン捕囚)。
やがて彼らはバビロニアから帰還し、破壊された神殿を再建し新たなユダヤ人共同体を形成してゆく。
本日学ぶ申命記は、モーセがイスラエルの民に向かって「遺言」として語った「説教」という文学的構造をもって描かれている。実際に申命記が形成されたのは、分裂王国時代〜捕囚時代であり、その時代のイスラエルの民に向けて書かれたものである。出エジプトの時期に与えられた神の教えと戒めは、イスラエル史における様々な状況のもとで、常に思い起こされ、自らのものとされなければならないものだったのである。
「律法」において示されている神の教えと戒めの中心テーマは「聞け、イスラエルよ。我々の神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4−5)に積極的にあらわわれる「唯一の神への信仰に対する招き」、「真の神礼拝」、十戒において示される「神との真の関係」「隣人や社会との真の関係」であると言える。
「律法」というと、我々は「不自由にする」「拘束する」というようなネガティヴなイメージを持つことが多いかも知れない。しかし神は、人間が真に祝福されて神と共に生きるためのひとつの「枠」をプレゼントして下さったのである。そして「律法」は真の神礼拝への道を開き、公正な社会判断基準を教える。
ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい。(4:9)
我々はなぜ、神の教えと戒めを繰り返し学ぶよう求められているのであろうか。我々は、すぐに忘れてしまう存在である。それゆえ、自分自身がまず「心の板に神の教えを書き記し」「神の教えを絶えず首に結ぶつけておく」ことをしなければならない。それは我々を不自由にすることではなく、そのことにより我々は命を得て解き放たれて生きることができるのである。
そして神の愛と神に従う幸いを知った者は、それを自分だけのものにとどめておいてはならない。次の世代に、次の次の世代にそれを伝えていく務めを頂く。モーセの口をとおして語らせられている神の教えと戒めが、王国時代末期のイスラエルの民にもまことのものとして受け止められたように、それはいつの時代の人間にも繰り返し自分の事柄として新しく聞かれるものなのである。
律法の個々の文言は、現代日本に生きる我々の現実に合致しないものが多い。旧約聖書に記された掟のひとつひとつを、我々が文字通りに行うことはできない。
しかし、その背後にあり全体を貫くテーマ(唯一の神への信仰、真の神礼拝、神・隣人・社会との真の関係)を我々は今日も繰り返し頂き、思い起こす。そしてそれを次の世代(血縁関係のみを意味しない)に語り、教えていく務めを、「新しいイスラエル」である教会は神から頂いているのである。