わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。
ヨハネによる福音書20章29節
主イエスに崇高な人格を認めても、その復活は受け入れ難いという人は多い。復活はキリスト教の躓きである。
トマスは、「わたしたちは主を見た」と言う仲間の弟子たちの言葉に、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と反論した。疑うトマスに復活の主が現われて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と言った。トマスは主イエスの慈愛に満ちた言葉を聞いて、「わたしの主、わたしの神よ」とひれ伏すと、主は今日の聖句を語った。
この世界には、見ただけでは分からない、信じなければ分からないものがある。人の愛や人格がそれである。神は見える形を持った存在ではなく、見えない人格である。神は御子イエスを通して、慈愛に満ちたその人格を現わされたのである。それゆえ、復活の主にふさわしいことは「見ないで信じる」ことである。「肝心なことは目ではみえないのさ。心で見なくっちゃ、肝心なモノは見えないんだよ」(サン・テグジュペリ「星の王子さま」)。
トマスは自分に語りかける主イエスの言葉によって、慈しみ深い神の人格に触れた。私たちもまた、主イエスの言葉を聞くことによって、神の人格に触れる。信仰とは、自分に語りかける主イエスの言葉を聞くことである。そこに、慈愛に満ちた神がおられる。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
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この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。