イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
ヨハネによる福音書 19章30節
冒頭の「成し遂げられた」という主イエスの言葉は、十字架の死が神の人類救済の成就であったことを示す。神の御子イエスは人の罪が露わにされた十字架において、人の罪の責任を引き受け、罪の贖いのためにご自身の命を捧げた。
人間の罪とは何か。罪とは神の御子を十字架の死に追いやった人間の内に見られるエゴイズムである。神を畏れるのではなく、人間を恐れ、付和雷同し、ひたすら自己保身のために行動するエゴイズムである。自分の利益のためならば神をも利用し、都合が悪くなれば神すらも抹殺するエゴイズムである。善悪の判断について、神の意思を聞こうとせず、自分自身が最後の拠りどころであり、自分に有益か否かによって善悪を決めるエゴイズムである。
聖書は、神と向き合おうとしない、神の御心に従おうとしない人間の自己中心の生き方が罪であると指摘する。神との関係を失っている人間は、神の目には失われた者である。神は失われた者を尋ね求め、関係を取り戻すために、人の子として世に来られた。人間の罪は神への背きであるから、罪なき神の御子の命でなければ贖われない。主イエスの生涯と十字架の死に、失われた者を救う神の愛が現れている。今や、御子イエスの贖いの死によって、私たちは神に見いだされ、神のみ許にいることがゆるされた。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
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この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。