剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。
ヨハネによる福音書18章11節
ユダは祭司長の下役たちを引き連れて、主イエスが弟子たちと夜を過ごしていたゲッセマネの園にやって来た。その時、主はご自分の身に起こることを知って、彼らの前に進み出た。主は不本意に捕えられたのではなく、進んで十字架の苦しみを引き受けた。
ペトロが大祭司の手下に剣を振り上げて抵抗しようとした時、主イエスは今日の聖句を語った。「杯」とは神の怒りを意味する。「飲むべき」という言葉に神の計画が秘められている。父なる神は御子に、罪人に代わって神の怒りを受けることを求めた。それは罪人に対して神の義を示すためであり、また、罪人を滅びから救う神の愛を示すためであった。主イエスは激しい葛藤と祈りの後に、父の御心に従われた。
すべての人間は神の御心に従うことが求められている。しかし、人間は神に聞き従わず、自分の欲するままに行動して、神に罪を犯している。その結果、この世界は、神に価値を置かない世俗主義、物質至上主義、現世主義が支配し、神の義が踏みにじられている。この罪のために、私たちは神の怒りを受けるべき者であり、霊的に死んでいた。しかし、罪なき神の御子が、私たちに代わって神の怒りの杯を飲むことによって、私たちの罪は赦された。私たちは神の義と愛の前で罪を悔い改めることによって、霊的に死んでいた状態から、神の前に生きる者となった。神の怒りによって滅びるほかなかった私たちが救われたのは、御子イエス・キリストが命をかけて父なる神に従い、その杯を飲み干してくださったからである。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
朗読はすべて教会員によるものです。文章と音声の転用はご遠慮ください。
この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。