「マラナ・タ」(主よ、来てください)。
コリントの信徒への手紙一 16章22節
ギリシャ語で書かれたパウロの手紙に、「マラナ・タ」とアラム語で書かれているのは、これが礼拝用語であったからである。二世紀に書かれた「十二使徒の教訓」によれば、「マラナ・タ」は「主の晩餐」で唱えられた。第一に、パンと杯によってご自分の十字架による救いの恵みを示し、食卓に招いてくださるキリストのご臨在を覚えて、「マラナ・タ」と唱える。第二に、キリストが再び来られて、救いを完成される終わりの日を待ち望みつつ、「マラナ・タ」と唱える。
教会は天の国に向かって旅する神の民の群れである。神は天と地とともに「時間」も創造された。時間は螺旋状のように同じ所を永遠に回り続けているのではない。時間は創造された神の支配の下にあり、過去から現在、そして未来に向かっている。教会は、過去において一回限り、キリストが救いを成し遂げられた事実を知ると同時に、現在、そのお方が見えない霊として臨在することを知っている。そして、このお方が再び来られて救いを完成される未来を待ち望みつつ、地上を旅している。
キリストは今、教会の主として、見えない姿で臨在されるので、私たちは心強い。しかし、主が見えないために、地上の教会は信仰の試みに遭い、弱さをさらけ出すこともある。その時、なぜ神は私たちをすぐに天の国に入れず、この地上を旅させるのかと思う。その答えは、神が多くの人を救いに招くためである。神の国の福音は全世界に宣べ伝えられる。「それから、終わりが来る」(マタイ24:14)。教会はキリストの来臨を待ち望みつつ、弱さの中で神の宣教に仕え、神の力と恵みを証しする。「マラナ・タ」(主よ、来てください)。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
朗読はすべて教会員によるものです。文章と音声の転用はご遠慮ください。
この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。