2026年4月26日(日)主日礼拝宣教要旨
聖書箇所:テトスへの手紙 3章3節〜8節
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、
テトスへの手紙 3章5節
御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。
神の憐れみは、私たちの義の業によってではなく、ただ神ご自身の側から先立って注がれています。私たちは弱さを抱えたまま、この憐れみによって救われ、「赦された者」として生かされているのです。この事実こそが、本日の御言葉全体の土台です。赦された者として、今ここでどう生きるのか——今日は三つのことを共に聴いてまいりましょう。
まず、「わたしたち自身もかつては」という正直な自己認識についてです。3節でパウロは、道に迷い、欲望に囚われ、憎み合っていた——という厳しい言葉を、「あなたがたは」ではなく「わたしたち」と自分自身を含めて語ります。そこには「健全なわたしたちが、健全ではない者たちに優しく接する」という高慢さはありません。私たちもまた、かつては同じ場所に立っていた者です。この正直さを引き受けるとき、はじめて私たちは、排除や分断ではなく、憐れみを携えて他者の傍らに立つことができるのです。
次に、神の憐れみが先立って注がれているということについてです。3節の厳しい現実の只中に、4節の「しかし」が光を差し込ませます。私たちを救ったのは、私たちの側の何かではなく、ただ神の側のイニシアチブです。5節の「洗い」はバプテスマを思い起こさせ、聖霊によって新しく生まれさせ、造りかえられる恵みを指し示します。そして6節、神はこの聖霊を「豊かに」注いでくださいました——資格も実績も問わず、あふれるほどに、惜しむことなく。この先立つ憐れみこそが、私たちの立つ唯一の土台なのです。
最後に、赦されたからこそ良い行いへと向かうということについてです。「義の業によってではない」と聞いた途端、私たちは二つの誘惑に揺れます。「自分は健全だ」という高慢と、「どうせ赦された罪人だから」という開き直りです。そのどちらでもない第三の道——弱さを抱えたまま、それでも優しさへと向かう道——が、赦された者には示されています。礼拝後の一言、久しぶりの連絡、隣に静かに座ること。そのような「小さな良い行い」を、豊かに注がれた聖霊が、今日も支えてくださるのです。
赦されて生きるとは、自分の「かつて」を忘れることではなく、その自分に神の憐れみが先立って注がれた驚きを、日々新たにして生きることです。「かつては——しかし」。この「しかし」の向こう側に立たせていただきながら、今週も隣にいる人への小さな一歩を、共に踏み出してまいりましょう。