2026年5月10日(日)礼拝宣教要旨
聖書箇所:エフェソの信徒への手紙 6章18節〜20節
「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」
エフェソの信徒への手紙6章18節
祈りは、私たちが努力して身につけるものではなく、神の側から先立って差し出されている賜物です。鎖につながれたパウロは、エフェソの教会の人々に「祈り続けなさい」と勧めると同時に、「わたしのためにも祈ってください」と願います。祈る者であると同時に、祈ってもらう者でもある——この相互の関わりこそが、教会という共同体の核にあるものです。今朝は、ミレーが描いた「晩鐘」のような、地に足のついた祈りの姿を御言葉から聴きながら、三つのことを共に心に留めてまいりましょう。
まず、祈りは「聖霊の助けによって」与えられる賜物だということについてです。パウロは祈りの勧めの冒頭で、「霊に助けられて祈り」と語ります。祈れない時、言葉が見つからない時、心が乾いてしまう時にも、聖霊は私たちの傍らに来て、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださいます(ローマ8章26節)。祈りは、私たちが頑張って積み上げる宗教的な努力ではなく、まず神の側から注がれている賜物です。だからこそ、立派な言葉で整えられた祈りも、ただうめくだけの祈りも、すべて同じように主に届けられます。
次に、祈りは「目を覚まし、互いを覚える執り成し」だということについてです。「すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」とパウロは続けます。執り成しの祈りには、「しっかりと的に当てる」という意味合いがあります。祈りの相手の状況を漠然と思い描くのではなく、関心を寄せ、詳細を知り、アンテナを張り続けながら祈るのです。同じ礼拝堂に座る人、足が遠のいている人、地域の片隅で声を上げられずにいる人、為政者——その一人ひとりを覚えて、目を覚まし続けることへと、私たちは招かれています。
最後に、祈りは「弱さの中で互いを支え合う」賜物だということについてです。パウロは「わたしのためにも祈ってください」と二度繰り返します。あれほど多くの教会を建て上げた偉大な使徒が、鎖につながれた獄中で、教会の祈りを必要としていたのです。祈り合うことは、一方的に祈る側と祈ってもらう側に分かれることではありません。今日祈る人が、明日祈られる人になります。唯一の神が私たち一人ひとりに伸ばしてくださっている「命綱」を、互いに確かめ合いながら歩む——その相互の握り合いこそが、教会の核にあるものです。
祈りは賜物です。私たちが何かを成し遂げて受け取るものではなく、歩み出すよりも先に神の側から差し出されているものです。聖霊に助けられながら、目を覚まして互いを覚えながら、そして自分自身もまた誰かの祈りに支えられていることを覚えながら——「祈りの賜物」は、特別な誰かの話ではなく、今ここに集う一人ひとりに、すでに開かれている招きです。今週も、土に立ったまま頭を垂れる、地に足のついた祈りを、互いにささげ合いながら歩んでまいりましょう。