朴 思郁 協力牧師
「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、
あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」ヤコブの手紙 4章15節
聖書で言われている「罪」とは何でしょうか。創世記に記されている「善悪を知る木」の物語から教えられるのは、罪とは、単に「善悪の知識の木」の果実を食べたことより(創世記2:17)、造られた存在である人間が、造り主の「神を抜きにして生きようとすること」です。神からの独立、神を抜きにして生きようという「傲慢さ」、それこそ人間誰もが抱えている罪の本質なのです。神から独立した結果、神との関係が絶たれたまま、自分勝手に自己中心的に生きようとしていること、それこそが私たち人間がおかれている現実なのです。
ヤコブの手紙は、そこから脱却しなければならないことを「『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」(4:15)と促しています。「主の御心であれば」とは、神を抜きにして生きる自己中心的な生き方から変えられたことが示されています。つまり、私たちに与えられたすべては、造り主の神ご自身が「極めて良かった」(創世記1:31)と宣言されたものであり、今も神の御手の中で保たれているという意識を持つ生き方に変えられたのです。その生き方の自己変革のきっかけは「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(14節)という言葉に示されています。
それは、人間が自分の限界を意識せず、自ら自分の人生を所有しているかのように生きていることが如何に愚かなのかということです。言い換えれば、「私たちは神にかたどって造られた被造物として有限性を抱えて生きている」という自覚が何より大切であるということです。その自覚を通して、神を抜きにして生きる生き方から、神の前で、神を意識し、御心を求めながら生きる、神を中心とする生き方へと変えられるのです。私たちは、「今」という「時」、そして「ここ」という「生活の現場」において、様々な「関係性」の中で生きています。神から与えられた各々の人生を大切にしつつ、神と人々に仕える神に喜ばれる人生を精一杯歩んでいきたいと願います。